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愛天 ~祈り~

<成和学生会報2017年2月号掲載>


祈祷をする目的

祈祷には主題がなければならず、目的がなければなりません。祈祷する時、誰のためにしますか。これが問題です。誰のために祈祷しますか。

神様は、どのような祈祷を喜ばれるでしょうか。神様のために祈祷するのを喜ばれるでしょうか、祈祷する人自身のために祈祷するのを喜ばれるでしょうか。神様のために祈祷するのを喜ばれるのです。

ですから、神様のみ旨に従っていく自分自身とならなければなりません。自分自身を先頭に立たせることはできないのです。神様が東におられれば、自分も東へ行こうという祈祷、神様が西に行くことを希望されれば、自分も西へ行くという祈祷をすべきなのです。神様が西に行くのを願われる時、いくら自分が東にいるのだと祈祷してみても通じません。神様を中心として、神様のみ旨を成し遂げるために祈祷すべきであって、自分自身を中心として自分の思いを果たすために祈祷してはいけないのです。

ところが人々が祈祷するのを聞いてみると、全部自分の息子、娘、自分の家、自分の国のために祈祷します。神様を中心として宇宙を考え、世界を考え、万民を考えながら祈祷する人はいません。祈祷の方向が間違っています。主題が違います。主題が違うのです。目的が違うのです。

神様に捧げる祈祷とは

今日、数多くの宗教家たちが祈祷をします。しかし、私はむやみに祈祷することはできません。「ああ、私は監獄に入れられて、死ぬようになったので生かして下さい!」という祈祷をすることができないのです。監獄に入れば、口を閉じてじっとしているのです。神様に申し訳なく祈祷ができません。

しかし、祈祷しないというのも何なので、祈祷を捧げるべきであるとするならば、国と世界のためにするのです。「あなたが願われる国と世界を求めていくにおいて、私がその足場となることができるようにしてくださいませ」と祈れば、神様も「おお、使えるな」と言われます。しかし、「ああ、私は死にそうです、このような姿、このようなありさまになりました」と言えば、神様は見向きもされないのです。「おい、こいつ!おまえは落第だ」と言いながら、落第の烙印をボンと押されるというのです。

今日、あらゆる人たちが祈祷するのをじっと聞いてみると、「ああ、神様、生きておられる神様、愛があふれ、能力が豊かで、無所不在であられ、万能であられるので、うちの息子、娘、うちの夫、うちの親に福をくださいませ」と言います。そのような祈祷はする必要がありません。

世界のために祈る

自分の家門から見て、顔を見て、どうのこうのと言う祈祷はしてはいけません。祈祷はそのようにするのではありません。

「神様、私は大韓民国の人として生まれましたが、大韓民国の人としてのみ生きたくありません。世界のために生きたいのです。神様も世界のためにご苦労されるので、私もそのように努力してみます。私もそのように努力することができるように導いてくださいませ!」と祈祷することができる皆さんにならなければなりません。


【天一国時代の祈祷 pp.19-30より抜粋・編集】

Category: み言の学校