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侍る生活

<成和学生会報2017年1月号掲載>

 

 

神様に侍るということ

これから皆さんは、侍る生活をしなければなりません。今までは信じることによって救いを得る信仰生活をしていましたが、これからは侍ることによって救いを得る時代です。本来、人間が堕落しなかったならば、神様に侍る道を行くのです。侍る時は、皆さんの生活と心で侍らなくてはなりません。皆さんがどこかに行く時、必ず前には真のお父様が、後ろには真のお母様がいることを感じなければならず、左右と上下には必ず天が共にあることを感じなければなりません。
皆さんは、神様がいらっしゃることを一日に何回自覚しますか。24時間の中で、何回神様がいらっしゃることを感じますか。侍ることによって救いを受けようという人々が、24時間の中で1~2時間程度侍ればそれで良いと思いますか。空気よりも、差し迫って必要なのが神様です。水よりも、差し迫って必要なのが神様です。ご飯より、もっと貴いのが神様です。
神様は、皆さんの近くにいらっしゃり、誰よりも皆さん一人ひとりを心配される神様です。世の中では肉親の愛が一番大きいと思っていますが、神様の愛はそれよりも大きくて深く、世の中のいかなる人間的な愛よりも深くて大きいのです。このような神様の愛の懐に抱かれ、父を呼び求める皆さんにならなければならず、「父の悲しみを私は知っています」と言える立場で、神様の内的な心情を体恤する真の息子・娘にならなければならないのです。そのような息子・娘となり、神様をお迎えした天国を所有するならば、その天国はいかなる者も奪っていくことはできません。
侍る生活は、簡単ではありません。皆さんも簡単ではありませんが、先生も簡単ではありません。先生も、そのような内容があれば眠れないのです。父母が子女を愛する以上に、神様に侍らなければなりません。父母は、私が生まれて二十数年間の間、精誠を尽くしたのです。神様は、人類が生まれてから、何千万年です。何千万年の間、慕わしく思った息子に出会うために投入し、精誠を尽くしたというのです。精誠を尽くしたからといって、“私は精誠をすべて尽くした”と考えてはいけません。精誠を尽くした後も、不足だと感じなければならないのです。

 

生活圏を共にする神様

神様は、妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではないのです。生活の中で主体性を持ち、私たちが暮らしている生活の主人として、常に共にいるのです。侍られているだけではありません。愛を共有しながら共同生活をしている神様です。先生は、このような環境で、今まで一生の間、サタンと闘争してきました。善の基準になるのが神様です。神様が信じるのと同じように、神様がおこなうのと同じように、神様が侍るのと同じように、いつも神様が中心にならなければなりません。サタンは、神様のように義なる人に対しては讒訴できないというのです。
神様を心の中にお迎えし、体の立場で人間が完全に一つになる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道がありません。それで、侍義の救援時代だとみるのです。侍ることによって救いを受けるのです。神様は、あの空の遠く彼方にいらっしゃる方ではありません。私たちの生活圏内の主体者として、神様に侍らなければなりません。
神様が信じ、おこない、生活し、侍る環境にいればサタンは干渉できません。いつもサタン圏内にいるとしても、そのような環境で神様と共にいられる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。今、特に侍義を語るのは、生活化天国時代だからです。

【天聖経 pp.1165-1168より抜粋・編集】

Category: み言の学校