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愛国 ~感謝する生活~

<成和学生会報2016年11・12月合併号掲載>

 

神様に感謝する心

信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。それが、堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。自分がこの世の中で良い立場に立って、初めて感謝しなければならないのですか。違います。今まで神様は、良い時だけ私たちのために苦労してこられたのではありません。困難な時であるほど、より苦労することを誓われたのです。ですから、今日の私たち自身も、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに働かれ、闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場でより一層感謝しなければなりません。
天国へ行くか、地獄へ行くかは、自分自身が決定するのです。文先生が決定するのでもなく、神様が決定するのでもなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国に行くのです。
忍耐して辛抱するだけでは足りません。忍耐と辛抱だけして、「ああ、大変だ」と言って良いでしょうか。忍耐して辛抱したとしても、忍耐して辛抱していないかのように感謝する心と、讃美する心を持つのです。不平を言いながら忍耐すれば、神様が来る途中で逃げていかれます。感謝する心がなければ、忍耐することができません。感謝する心が支柱になれなければ、忍耐したとしても、そこには神様が一緒にいることができません。

 

父母という立場

神様は、私を救う立場にいらっしゃるので、私よりもっとかわいそうな方です。子女が父母の前で死んでいくとすれば、子女もかわいそうですが、その子女を見つめる父母はもっとかわいそうです。もし子女が死んでいく場でも、父母を慰労し、父母に無限の感謝を捧げて孝を尽くしたとすれば、父母の悲しみ、父母の苦痛、父母の悲惨さを埋めることができるのです。
それと同じように、神様と私を中心として見てみる時も、私よりもっとかわいそうな方が神様ではないでしょうか。いつ神様が私に感謝できる日があるのでしょうか。神様が私に感謝できる日を持てなければ、私たちがいくら神様に感謝を捧げたとしても、それは私だけで終わる感謝であって、神様と一つの目的を中心とする感謝として実を結べません。

 

感謝の心を持った信仰生活

いくら孤独な場でも、感謝する生活ができる人にならなければなりません。感謝する心で生きなければ、霊界に行って天法に引っ掛かるようになります。感謝して喜べる福を受け、それを万民に分けてあげ、彼らも喜んで感謝するようにしてあげなければなりません。
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21)とイエス様が語られたように、感謝できる心で天国を成せなければなりません。感謝する心がなければ、天国に行けません。
信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません。皆さん自身を中心として、信仰生活をするのです。それゆえに、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。天を中心として感謝できる生活であり、一人で満足する生活ができなければなりません。世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。

【愛天愛人愛国pp.149-153より抜粋・編集】

Category: み言の学校