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愛天 ~礼拝の時間~

<成和学生会報2016年7月号掲載>

 

 

教会は天国生活の訓練場

教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門戸であり、全ての人に相互扶助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となるのです。教会は、霊的生活の源泉であり、日々の生活に力を補給してくれます。


誰のために教会へ行くのかというと、神様のために行くのです。神様を私の神様として侍るために、神様の愛を私の愛として得るために教会に行くのです。
天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場です。
人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集団的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じ得るかが問題です。そのような関門が、教会になるのです。

 

礼拝を捧げるということ

礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪するのです。礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎打ちをするよりも深刻な時です。
礼拝の時間に早く来た分は、千金、万金を出しても買うことのできない価値があります。礼拝の時間は神様に捧げる時間であるために、その時間に遅れることは神様から盗みをすることと同じです。礼拝には決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけ神様の前に面目を立てることができます。そうなれば、昨日よりも良い心を持って天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷する時も目をパチクリさせながら、「先生は今日どんなみ言を語られるか」と座っている姿を見ると、みじめで仕方がありません。
神様を訪ねていって侍る場所に、礼服を着ないで参席できますか。外見上の礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんの姿が、かわいそうな姿だとしても、心からみ言と共に、讃美と共に、感激した心情があふれ出るなら、天は皆さんを信じて役事なさるのです。
礼拝の時間というものは、自分で自分の善悪を判定する時間です。
皆さんは、聖日礼拝の時間のために、3日前から心を引き締めながら準備しなければなりません。そうして、万民の幸福を祈ってあげ、私を通して万民が蘇生できる復活の権限と生命の因縁を連結させようと身もだえしながら教会の門を入ってこなければならず、神様の前に心を締め付けられるような思いで礼拝に参席しなければなりません。

 

公的な時間を守る

時間の観念が強い人々は、礼拝時間のような時間を、公的時間として立てておきます。すると、そのような公的な人々が尊重視するその時間を守れなかった人々は、その公的時間を守った人々に対して恥ずかしくなるのです。その時間を守った人が、三千人、あるいは三万人いれば、それに比例して、その数が多ければ多いほど、さらに恥ずかしく感じるようになるのです。
先生は、時間を守れなくなると、顔をあげられませんでした。時間の観念が強いのです。時間を守れなければ、悔い改めなければなりません。悔い改めなければならないのであって、時間に遅れても、「時間に遅れたからどうだというのだ」と思ってはいけないのです。自分の自由にできるのですか。全てに道理があるのです。

【愛天愛人愛国pp.47-50、礼節と儀式p.78より抜粋・編集】

Category: み言の学校