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自己主管完成の道

<成和学生会報2016年6月号掲載>

 

 

“私”の中の矛盾

 

人間には、善の要素もあれば、悪の要素もあります。これが問題です。“私”という一個体を見れば体があり、心があります。しかし、この体と心がいつも仲良くしていないのです。

心は「このように行きなさい」と言うのに、体はいつも心が行こうとする方向にブレーキをかけます。「そっちに行かないで、こっちに行きましょう」と言うのです。そのため、今までの歴史過程の多くの預言者や烈士たちは、心と体をどのように調整するかという問題で悩んだのです。

 
心と体が一つになれず、互いに相反した結果を追求するというのです。心が行こうという所に行けば、堕落した今日の世の中とは違う所に行き、体が行こうという所に行けば、堕落した所に行くのです。この体は、何かを食べさせてあげれば「もっと食べさせてほしい」と言い、休ませてあげれば「もっと休ませてほしい」と言い、人の物を全て自分の物にしようとし、自分を中心にして、自分が一番だというのです。他の人はお構いなしです。

 
心は体と反対です。心はいつも「人のために犠牲になりなさい」と命令します。「人のために生きなさい。かわいそうな人を助けてあげなさい。公的な立場で、大衆のために体を捧げなさい」と言いながら、心はいつも体とは違う方向へと指導するのです。

 
本来、人間の心と体には神様の愛が入り、内外で矛盾や相反、闘争があってはいけません。ところが、人間が神様から離れていき、サタンを中心として外的な愛をおこなったことが動機となり、体と心が相反した立場で闘争する結果が生じたのです。そして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的で永遠な生命の起源となる神様の愛に背く歴史の結果が生じたのです。ですから、外的な愛、すなわちサタンの愛を取り除き、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して、体と心を糾合しなければなりません。ここから統一が始まるのです。

 

心と体の統一

 

“私”自身が心の基準を神様の心情世界に一致させ、その心情を中心とした心が、“私”の生において体を調整する主体的な立場に立つことができるかが問題です。夜でも昼でも、24時間相対的な立場で、マイナスのような立場で“私”の体が心と一つになることを願う力の作用が私の体と心に広がれば、その力は宇宙を動かせる力と通じます。私の心がプラスになり、私の体がマイナスにならなければなりません。ところが、心もプラスであり、体もプラスになっています。プラス同士では相反するため、この体が怨讐なのです。これをどのようにマイナスにするのでしょうか。神様のみ旨の道を行こうとすれば、体と心が一つにならなければなりません。体が主体になっているので、心を中心として体を征服しなければなりません。これをどのように越えていくかが皆さんの闘いです。これを越えずしては神様のみ旨が成就されません。

 
主管性をどのように復帰しなければならないのでしょうか。神様は時代を超越する主管性を提示してこられました。それが犠牲と愛です。犠牲と愛の主題を前に立てて、あらゆる辱めと困難を克服して行けば、その環境にいる人々が自動的に主管性を持つことを願うようになるのです。人間が行くべき公式的な路程があります。故障したなら故障した物を必ず、工場から出てくる時の設計図によって、そのまま再び合わせなければなりません。修理するには、最初に造る時よりももっと力が要ります。それは、神様が創造された時よりも、修理するほうがもっと難しいということです。これが人間完成の道です。

 

【天聖経pp.459-462より抜粋・編集】

Category: み言の学校