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心に同化する生活

<成和学生会報2016年2月号掲載>20060412-5

 

分け与えたいという思い

愛する心は、いつでも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私が100億円持っていて、全部道端で分けてあげたとします。それでも心は安らかではないのです。世界の人類を助けてあげられなかったからです。お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。きりがないのです。ですから、神様の心は測量できないのです。神様の心がそうだというのです。神様の心はどれだけ大きく、どれだけ深いでしょうか?ですから、自分を誇ることはできないのです。いくら立派なことをしても、心に聞くと「もっとしなければならない」と答えるのです。
世の中の人々は、少しでも分かってもらうことを願うのです。分かってもらうことを願い、称賛してもらうことを願うのです。しかし心はそうではないのです。心が願う道は十字架の道なので、たびたび称賛を受けていると、その位置が良くなるのです。尊敬されていると、気持ちが良いので十字架を背負わないようになるのです。心の道を行こうとすれば十字架を背負わなければならないので、それが難しい道になるのです。体が願う道ではないので、行けないのです。
先生は30歳近くになるまで、本当にひもじい生活をしたのです。お腹の空かない日はなかったのです。お腹の空いた人々に同情しながらも、私はお腹の空いた時間をほめたたえなければなりませんでした。ご飯がなくて食べないのではなく、わざわざその道を行くのです。責任を果たせない人は、思いのままにご飯を食べられないというのです。私が準備する、あらゆる課題を成す前には、睡眠も取ることができないのです。それでも心は、“もっとせよ”と迫るのです。

 

心が教えてくれること

私は、いくら疲れていても昼寝ができません。昨日も1、2時間は寝たでしょうか?「疲れるので少し休んでください」「年を取ったので、休む時が来たのです」と言うけれども、心が許さず、寝ることができないのです。私は年を取っているけれども、私がする仕事は若い人よりももっと多いのです。
ですから仕事をする過程で、心が私を通して教えてくれるのです。心がさっと分かるのです。自分にとって一番近い先生は誰かというと、自分の心なのです。ですから、心を苦しめてはならず、悲しませてはならないのです。それは、先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることになるのです。心が私の一生の主人なのです。心を悲しくさせることは、私の一生の主人を悲しくさせることなのです。心が喜ぶことのできる道を行かなければなりません。
私は中学校時代、学校の掃除を全部したのです。私が先頭に立って全校を愛したい心があったので、全校を代表して掃除をしようと思ったのです。他人が手助けするのではなく、一人でしたいのです。一人できれいに掃除しようとするので、他の人が掃除した所をもう一度するようになったのです。そのように何回かしていると、友達が皆「それならお前一人でやれ」と言うのです。ですから、自然に一人でするようになるのです。
その時間は、心と楽しむ時間なのです。この世的に見ると悲しい立場のようですが、心と友達となる時間なのです。それで、すべて掃除して座って瞑想でもすれば、深い祈祷の場に入れるのです。他の人には分からない深い世界に入れるのです。そのようなことが必要なのです。
心と同化して版図を広げる生活をいかにしているのかということが、問題なのです。

 
【真なる子女の道pp.60-62より抜粋・編集】

Category: み言の学校