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対物関係

<成和学生会報2015年3月号掲載>1

 

日常においての関係

私たちが日常生活で接しているものは、大旨どのように区分されるのでしょうか。第一に、物に接すること、第二に、人に接すること、第三に、言葉に接すること。言い換えれば、物に接する対物関係、その次に、人に接する対人関係、その次に、対人関係において言葉を話す関係があるのです。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためのものです。
ですから、物に接する関係において、天法、あるいは神様の前に引っ掛かってはいけません!人に接する関係においても、言葉を話す関係においても、その法に引っ掛かってはいけません!語る関係において、その語ったことに対して引っ掛からないためには、必ず行動に移さなければなりません。言葉は行動の動機になるので、語ったことに対して引っ掛かってはいけないのです。言葉は必ず行動を催促します。これが私たちの日常生活においての関係なのです。
それでは、対物関係において、どのように天化(注:神様を中心として行動すること。あるいは神様を中心としたものにすること)させるのでしょうか。つまり、その物に対して、堕落した私として接するのではなく、神様が主体となって対したという立場をどのように立てるのかというのです。対人関係においても、私自身として接するのではなく、どのように神様と共に接するのか、また、言葉を語るにおいても、私独りで言葉を語るのではなく、どのように天の言葉を語るのか、これが問題です。
ですから、物に接するにおいては、原則的な法度に背いてはならず、人に接するにおいても、言葉を語るにおいても、法度に背いてはならないのです。物に対しても、人に対しても同じです。もちろん、人を中心として対物関係が成立するのですが、このような立場で関係を結んでいることを知らなければなりません。

内的価値を持つために

それでは、信仰者として物に接する時、どのように対さなければならないのでしょうか。それは、どこまでも公的に対さなければなりません。公的に接する時、それが十の価値を持っているとすれば、十の価値だけで見るのでなく、それをどのように千万の価値として見るか、この価値をどのようにより大きく見るかということが重要です。たとえ、その物の価値が微々たるものであっても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万倍に高めることができるのです。私の愛している物に神様が関係している時、その物の価値は無限な比重をもって現れるのです。
そのような心で物に接するようになれば、その物が実に慕わしく感じられます。皆さんの生活圏内で感じることや、皆さんの心の世界で感じることの中に、そのような感応が伝わってくるようになるのです。そのような心を持って物事に接すれば、その結果は、自分一人が期待していたものよりもっと立体的な価値の内容を持つようになります。
一つのことや物に対したことにより、自分が環境的に大きな価値の結果を感じるようになったという事実は、それによって自分がより高い霊的な内的価値を持てる位置に立ったということです。そのようにすれば、ことを成したのちにも感謝し得るのです。どんなに大変なことであっても、私がしている苦労よりも、天的に何百倍、何千倍の価値的な結果が現れるという、そのような価値を感じながら行動する人がいるとすれば、それがどんなに難しいとしても、難しいそのことがかえって感謝の対象となるのです。
ですから、物に対する時も、何の考えも持たずに対してはいけません。物は、プラスでなければマイナスを私にもたらすようになると思わなければなりません。つまり、私にとって福になるか、そうでなければ災いになるのです。ですから、現在十の立場から私がその物に対するとき、十一の価値になるのか九の価値になるのか、すなわち、マイナスをもたらすのかプラスをもたらすのかを考えて、マイナスになる立場を避けてプラスになり得る立場をどのように立てるか、ということに対して努力しなければならないのです。

【後天時代の生活信仰p196-200より抜粋・編集】

Category: み言の学校