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信仰生活

<成和学生会報2015年2月号掲載>ツ・ニケヤ075

 

円満な心を持つ

 信仰生活において最も注意しなければならないことは何でしょうか。あることに対する時、些細なことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんに関わらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がパンと張っていなければならないのです。空気をパンパンに入れて完全に丸くなったボールのような心の姿勢を持つのです。不安な心や、個人の欲望を中心とした邪悪な心を持てば、丸いボールのような心に角が生じます。
この心が回る時には、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反発的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準がだんだんと削減されていくのです。
ですから、常に円満なボールのような心の状態が必要です。そして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が同じ音叉を二つ置き、片方を鳴らせば、もう一つは叩かなくてもその音波に刺激されて同じ振動数で鳴るのと同じように、私たちの心も、共鳴体となり得る円満な心を持たなければなりません。そして常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。
そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をするのです。そして、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢を持たなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
また、そのような共鳴を感じられない立場で物事に接する時には、“神様はこのことを望んでいらっしゃる。私と直接的な関係を結んでいると感じることはできないが、関係は望んでいる。神様が先にこのことに介入していらっしゃる。神様のみ旨がここにある。今は、このみ旨を中心として私が接触する瞬間だ”と考えればいいのです。あることをする時に、私一人でしていると思ってはいけません。その物事自体を中心として見る時に、そこには必ず神様のみ旨が既にあるのです。それゆえに、先を行っているそのみ旨に従っていき、そのみ旨と一致点に基礎を置かなければなりません。私たちの生活を総合してみれば、そのようになっています。

み旨と一致するためには

 それでは、み旨との一致点に基礎を置くためには、どのようにしなければならないでしょうか。非良心的な立場に立ってはいけません。み旨を中心として、私の心が純潔な心で完全に授受でき、完全に共鳴できる生活態度を育んでいかなければなりません。そのようにすれば、どんなに難しいことであっても、それが私にとってマイナスになるのではなく、プラスになるのです。そうすれば、今までいた立場よりも一段階前進できるのです。
結局は、神様と主体と対象の立場で、心と体が授受する感触を感じながら物事に対していくようになれば、天が従ってくるのです。このような感触がない時は、“神様のみ旨が既にそこにある”という感情を持ちながら、物事に対して行動する立場に立つようにするのです。そのようにすれば、既にそのことにはみ旨が介在しているので、そのみ旨と私が完全に一体となるのです。しかし、それを非良心的な基準でしてはいけません。純潔な良心を中心としておこなえれば、それによって力を得るようになり、神様が共にいらっしゃることを必ず感じられるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
ですから、心に動機が体恤されないならば、み旨が既にここに介在しているのでそのみ旨を成し遂げよう、という立場で“相対的な立場にある、その物事の中に動機がある”と考えるのです。そして、私自身がその動機と一体となって結果をもたらすようになる時、それが個人的な目的のためのものではなく、公的な目的に結びつくようになれば、生きがいを感じ、力を感じるようになります。そのような人たちは、祈祷生活をしなくても、祈祷生活をする以上の効果を上げることができるのです。

【後天時代の生活信仰p186-189より抜粋・編集】

Category: み言の学校