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体恤信仰

<成和学生会報2015年1月号>

信仰の主体は神様

私たち人間がこの地上で信仰生活をしていく道は、一人で行く道ではないことを常に考えなければなりません。
 信仰の道におけるその対象は、“私”ではなく“神様”です。どこまでも神様を対象にしていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれ、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体と関係を結ばなければならないのです。

このような関係が結ばれなければ、み旨と共に完成する“私”自身にはなり得ず、み旨のために活動したと思うその結果が、天の摂理の前にプラスになることはないのです。
神様と私たち人間は、必ず相対的な関係をもって連結されなければなりません。言い換えれば、授受作用をして一つにならなければならないのです。その一つになる程度に従って、私たちの生活環境に変遷をもたらすようになるのです。そして、その変遷した内容を私たち自体の生活面から見て、過去よりも価値的なものとして感じられるようになる時、私たちは信仰の恵みを感じるようになるのです。

神様と自分との共同目的

人は、大概相対的な関係を通して何かの意識をもつようになります。もちろん、自分の心の中でも考えるのですが、ほとんどは感覚的な器官を通して刺激を受け、相対的な関係を中心として意識をもつようになっているのです。信仰生活をするにおいては、私たちの心の生活だけでなく、その心に感じられた事実をどのように相対的生活環境に適用するのかが、最も重要です。
皆さん自身が、ある信仰の基準のもとで、一年ならば一年の間、“私はこれこれこのようにするつもりだ”という計画を立てたならば、その計画が私と関係を結ぶだけでなく、神様とどのように関係を結ぶのか、そして、主体であられる神様と対象である私が一つとなることによって、その結果をこの環境にどのように実らせるのか、それが、原理的に見る時に重要なのです。
主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらします。その第三の結果は、主体の目的だけでなく対象の目的、すなわち二重目的をもった結果として現れるのです。そこで、結果として現れたものが、それ自体で、主体と対象が因縁を結ぶ前よりも価値あるものになってこそ、より大きな刺激を感じ、より大きな喜びを感じられることを、私たちは知らなければなりません。
今月ならば今月の1か月を中心として、信仰的な面で、各自がある目標を立てて実践していく時、その目標を自分個人の目標と思ってはなりません。その目標は、常に主体と対象の共同目的であり、その結果も、常に主体と対象の共同価値の結果としてそれを追求していることを、自ら感じなくてはいけません。これは、自分がすることだとしても、それは自分一人がすることではなく、そこには必ず神様が介入しているという意味です。自分一人が動くのではなく、神様が同伴して動いているのです。
このように、神様が共に動いている事実を感じるようになる時、ここから“体恤信仰”が出発することを、皆さんは知らなければなりません。ゆえに、日常生活においても、無意味に生活するのではなく、意識を持っているある主体がいれば、その主体と自分の考えを整列させ、自分の一日の生活過程が自分に限られた過程ではなく、主体と一つになって共になす過程だと感じられなければなりません。そのような立場に立つようになる時、“体恤信仰”が始まることを知らなければなりません。

心を神様の方向に合わせる

人には心があります。そして、心には心の門、すなわち“心門”があります。神様が私たちに対してくださるその方向に、心の門をどのように合わせるかが問題です。これは非常に難しい問題です。
人間の姿形が様々なのは、持って生まれた性質や生い立ちがみな異なるためです。身を置いている位置が、全て異なった動機からもたらされたのが人間なので、その立っている基準に従って私たちの姿もみな異なってくるのです。ですから、人間はいつでも中心を基準にして関係を結ばなければならない立場にあるのです。この中心は絶対的な基準なので、この基準が私たちの主体的な立場とならざるを得ません。その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象である私たち人間も、それを中心として回っていかなければならないのです。

【後天時代の生活信仰p186-189より抜粋・編集】

Category: み言の学校