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イスラエルの伝統を築いた人々 その1:モーセ⑧

<成和学生会報2014年11月号掲載>moses

きょう神様のみ声を聞くように

モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地で守るべきみ言を与えられ、神様に侍るその作法も細かく教えられながら、いよいよ約束の地を目前にして怖気づき、不信仰に陥ったイスラエル民族でした。エジプト脱出の際に数々の奇跡を目撃し、荒野でさまようときにも守り導いてくださった神様のみ業を体験していながら、かたくなな心が変わらなかった民を、神様は泣く泣く裁かなければなりませんでした。
イスラエル民族の賛美歌である詩篇には、神様が荒野のできごとを思い起こして祈る内容が記されています。かたくなな心を悔い改め、二度と過ちを繰り返さないように、常にみ言に耳を傾け、心を開くようにと戒めます。詩篇にはこうあります。
「どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。あの時、あなたがたの先祖たちはわたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。(詩篇95・7-9)

 

水を求めて神様と争う民

40年の間、荒野でさまようことになったイスラエル民族がどのような道をたどり、どのような生活をしたのか、聖書は多くを語りません。悔い改めの期間は、神様が彼らからしばらく遠ざかって、劇的な展開が何も起こらなかったからです。この間に20歳以上の者たちはことごとく倒れていきました。
荒野の40年が終わりを迎える頃、イスラエル民族は再びチンの荒野に入りカデシに宿営しました。長く苦労してきた民でしたが、ここに来てもまだ指導者モーセと争い、不満をぶつけるのです。
 「どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません。」(民20・5)
この時、神様はモーセに命じて杖で岩を打ち、水を与えることを赦しました。しかし、モーセの心は穏やかではありません。あまりにも不信仰な民を前にして、彼の心に怒りが込み上げてきたのです。
 「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」(民20・10)
彼は怒りにまかせて岩を二度打ってしまいました。民に水を飲ませることはできましたが、モーセにとっては大きな過ちとなってしまったのです。
「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」(民20・12)神様はモーセにこう告げたのです。
聖書はこのできごとをこのように記録します。「これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。」(民20・13)

 

青銅のヘビを仰ぎ見る

カデシを出発したイスラエル民族は、ホル山に到着しました。そこからエドム人の領地を通過しようとしてエドム王に拒否されました。争いを避けて迂回しようとしたときに、またもやイスラエルの民が騒ぎ始めました。
 「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。」(民21・5)
人々の不平はいつも同じです。腹を満たす食料がないと騒ぐのです。厳しい環境の中、食糧の欠乏は、人々の心に深刻な状況を作り出します。この時神様は“火のヘビ”を送り、多くの民が死にました。そこで、生き残った人々は悔い改めて、モーセに神様へのとりなしを願いました。モーセも民のために祈ったので、神様は救済処置を施します。モーセに告げました。
 「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう。」(民21・8)
モーセは神様の言葉に従って青銅でへびを造り、さおの上にかけて置きました。悔い改めて神様のことばを信じ、それを仰ぎ見た者は再び生きる者となりました。
カナン入国の時が近づいているにも関わらず、いつまでもかたくなな民を正していこうとする神様でした。しかし、どれほど多くの犠牲を伴った旅だったでしょうか。モーセを支えてきた姉ミリアムが亡くなり、モーセの口として民に取り次いできた兄アロンもこの世を去りました。そしてモーセ自身も、この世を去るときが目前に迫っていたのです。

Category: 誌面説教