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体の父母なる地を愛する

<成和学生会報2014年11月号掲載>

自然との因縁

私たちの心は、我知らず山水が良い所を求めています。なぜでしょうか。それは、私にも分からないその何かが、深い所で因縁を結んでいるからです。自然に接するその瞬間、何かが感じられ、自らを改装し、深い心情の境地に浸るようになるのも、本来の因縁が再確認されるからです。もし人間が堕落しなかったならば、一株の草にも涙を流すことができ、愛する人や愛する友人のように感じることができ、創造主がその草をつくられる時に喜ばれたその妙味を体恤することができたでしょう。そのような人間になっていたならば、堕落し、絶望し、悲しむ人生を生きることはありませんでした。
皆さん、体の父母とはなにかというと、地です。人として公認されるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。皆さんは父母を通して生まれました。ですから、父母の公認を受けなければなりません。地は皆さんの体の父母であり、そして、皆さんを産んでくれた父母がいて、また、本性の心の父母が真の父母です。ですから、最初に地の公認を受けなければなりません。自然を愛さなければならないということです。地を愛せない人は、地のものを食べる資格がありません。

種と肥料

種は、肥沃な土地に植えなければなりません。その肥沃な土地をつくろうとすれば、肥料が必要です。ところが、肥料と種は関係がありますか。言い換えれば、種が肥料を好みますか。殻が破れて、初めて種が肥料を好むようになるのであって、破れるまでは、その種の気分がどれほど悪いか考えてみてください。種を肥料の間に植えたとすれば、どれほど気分が悪いでしょうか。しかし、殻が破れて種と肥料が調和を成すようになれば、それまでの悪い気分は消え去り、そこに命が芽生え始めるのです。私たち統一教会が行く道は、そのような道なのです。
ですから、地方に行って、困難な中で汗を流し、涙を流しながらこのような種を植えておこうというのです。そして、それを肥料として吸収して主体的な生命力を持つようになる時には、間違いなく、その村を覆って余りある大きな木に成長するのです。このように開墾し、環境を開拓していかなければなりません。

パンタナール精神

パンタナールの伝統思想は、そのままのみ込んでしまうということです。そこでは、大きな魚がそのままのみ込んでしまいます。それにふんなどがついていないでしょうか、うじのようなものがいないでしょうか。何があっても関係ないのです。そのままのみ込んでしまいます。
そのままのみ込んでしまうという哲学の世界がパンタナールです。ですから、私にとってパンタナール精神とは、悪いものも良いものもそのままのみ込んで消化し、自分が生きていける栄養をもらって大きくなるということです。文総裁がそれをしようとすれば、サタン世界も善なる世界も、そのままのみ込んでしまうということになるのです。
パンタナールに行ってみると、そこは丸のみする猛獣たちが棲む所です。それで、「いやあ、私に似ているなあ!」と思ったのです。
神様もそうです。神様は、どのような方でしょうか。丸のみする王の中の王です。悪人でも善人でも、一度にのみ込もうとされます。では、別々に食べるのですか、混ぜて食べるのですか。皆さんも食事をする時、味が濃いものと薄いもの、辛いものと辛くないものを混ぜて食べるのがおいしいですか、味が濃いものだけを食べるのがおいしいですか。混ぜて食べるのがおいしいのです。なぜでしょうか。丸のみする王として通過するために、一生の間そのように訓練するのです。
考えてみてください。統一教会員たちが祝福を受けるために、7年、9年と修練して、初めて祝福してあげたのですが、今では10時間、1時間、10分でもしてあげるのですから、世の中にそのような祝福がどこにありますか。聖人と殺人鬼を一緒に祝福してあげるのです。一度に丸のみしてしまうのです。

【後天時代の生活信仰p176-180より抜粋・編集】

Category: み言の学校