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信仰生活の本質は神様への感謝

<成和学生会報2014年6月号掲載>編集後

 

私のために苦労された神様

今まで神様が苦労されたのは、結局私のためでした。ですから私たちは神様に感謝せざるを得ません。では、信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。そのような心があれば、神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。

神様は、困難な時であるほど、より苦労することを誓われたのです。ですから、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場でより一層感謝しなければなりません。

神様のために笑って暮らす

感謝する生活をどのようにするのでしょうか。一日の生活の中で、私が見て聞いた全てのことは、何のために見て聞いたのでしょうか。神様のためです。神様のために見て聞かなければなりません。また、感じることも、神様のために感じなければなりません。

神様は、人間を創造され、歴史が始まって以来、一度として喜ぶことができませんでした。私たち統一教会の人たちは、神様を苦労させようとして集まったのですか。喜ばせるために集まったのです。それでは、喜ばせてあげようとすれば、どのようにしなければなりませんか?泣いて暮らしますか、笑って暮らしますか。笑って暮らさなければなりません。神様のために生きようとすれば、笑って暮らさなければならないという結論が出てきます。ですから、感謝の生活を中心とする所で神様と出会うことができるのです。不平不満を言う所では絶対に神様に出会えない、ということを知らなければなりません。

神様に感謝される生活

それでは、神様が私に感謝できるとしたら、どのような所でしょうか。それは孝行する所しかありません。では、孝行するとはどういうことでしょうか。父母が悲しむことに対して、子女が先に悲しむということです。その時に父母は、その子女を無限の希望の実体、自分の全ての命の代身となる価値の存在として立てたい、と思うのです。そのように思いながら、父母は子女に感謝します。環境が困難であればあるほど、父母はそれ以上の感謝を感じるのです。

私たちが生活する一日の朝、昼、夕、夜を季節で見れば、春夏秋冬を縮小させたものです。朝は春、昼は夏、夕は秋、夜は冬に該当します。このように、一年の四季に代わるこの一日をどのように生活すれば、お父様が私に感謝できる生活になるのでしょうか。それは、私たちがお父様に対する孝の道理を果たし、忠の道理を果たすことではないでしょうか。

このような立場で、私たちは、早朝に起きれば、「人類を身代わりした存在である、私の一日の生活が、お父様の前に感謝の実体になるようにしてください」と祈祷しながら、花咲く春の季節のように自由な園で、お父様が私を立てて摂理なさることができる希望の実体になろうと考えるのです。昼になって職場に出ていれば、希望の結実体が育つ夏の季節のように、自分がもう一歩発展し、神様が共にいることのできる価値を持った存在になろうと考えなければなりません。また、夕方になれば、全体を集約させた一つの結実をお父様の前に捧げる秋の季節のような時なので、祭物になれる立場に立とうと考え、冬の季節に該当する夜には、生命力を備えて神様と内在的な父子の因縁を結び、全ての気を受け入れる自分になろうと考えなければなりません。そのように、一年365日を勝利の日にしながら感謝する生活をする人がいるとすれば、その人は、父と関係を結んで暮らす生活をしている人です。そのような人は、間違いなく一生を感謝する生活で送ることができるのです。このような人が、死の場においても、神様に感謝する心が残るのです。

一日をそのように生きなければならず、一年をそのように生きなければならず、私たちの一生も、そのように生きなければなりません。私たちの一生にも、少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代があります。これは、一日の朝、昼、夕、夜、一年の春夏秋冬と同じです。ですから、一生をそのように生きていった人であってこそ、神様が人間を創造されたその創造本然の目的に合格した、一つの勝利的実体になるのです。

【後天時代の生活信仰p143-150より抜粋・編集】

Category: み言の学校