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共に暮らす

<成和学生会報2014年5月号掲載>2014.5会報

 

共に暮らしたいという心

家庭があれば、まず父母に侍り、その次に妻子を従える生活をします。私たちは、そのような家庭を中心として生きているのです。それでは、真の意味において、「私たちは、家族と共に暮らしたい」と言える人がどのくらいいるでしょうか。また範囲を広げて世界的に拡大し、この世界を中心として一つのある中心存在が決められ、その中心存在に対して、「私たちは、本当に彼と共に暮らしたい」と言える世界とは、果たして可能でしょうか。それが問題です。

さらに一歩進んで、大宇宙を創造した神様がいらっしゃるとすれば、神様と今日の全ての被造世界はもちろん、過去、現在、未来の人間がみな「私たちは、本当に共に暮らしたい」と言えるそのような世界になっているでしょうか。これが一つのなぞであり、人生の命題であり、また私たちが宿命的に望んでいる希望ではないでしょうか。

では、そのような命題において、再び自分自身に戻ってみて、「私は家族と共に暮らしたくない」と思うことがあれば問題なのです。「あなたは父母と一族に侍りたいと思いましたか」と尋ねられた時、「生まれてから死ぬまでの生活と、生涯路程を通してそうでした」と答えられる家庭があるとすれば、その家庭は、世界的な模範として追慕され、記念されるべき代表者となるでしょう。

10人の家族と一緒に暮らす場合、10人の家族全員が「彼は本当に共に暮らしたい人である」と言うならば、その人は10人の家族の生涯路程において、忘れられない尊敬と追慕の対象になれるのです。その人が兄であれば兄として、父母であれば父母として、姉であれば姉として、家族の心の深い所を占領できる主人公になるのではないでしょうか。

 

孝子が行く道、聖子が行く道

ですから、家庭では孝子を願っています。孝子とは何かというと、「父母と共にいつまでも暮らしたい」と願う子女なのです。では、生きる時には何を中心として生きるのかと言えば、ここでの共通分母は、すなわち父母を愛することです。歴史も、この共通分母を中心として変わろうとするのであり、これを否定しつつ変わることは願わないのです。ですから孝子の伝統を受け継いだ人は、家庭から願われる人、すなわち共に暮らしたいと願われる人です。また私たちの五官の感覚と深い心情の内面からも、共に暮らしたいと願われる、そのような人ではないかというのです。

もう少し範囲を広げてみれば、歴史上には聖人たちがいます。聖人とはいったい何かというと、全ての宗教の教祖たちです。例を挙げれば、釈迦、イエス、あるいは孔子、ムハンマド(マホメット)、その4大聖人は、神様を中心とする教祖の役割を果たして“聖人”という称号を持っています。では、その教祖たちが持っている内容とは何でしょうか。それは神様がいらっしゃるとすれば、その神様と共に暮らしたいと願っていたということです。神様を知って、神様によって治められる人類が存在しているという時、その人類と共に暮らしたいと願った人々が、すなわち彼らなのです。「私たちは、本当に共に暮らしたい」と言う、その代表的な生活と生涯の路程をたどっていった人たちが彼らではないでしょうか。

さらに、統一教会では、“聖子”ということを言っています。聖子とは、もちろん天法を中心として全てのことを履行するということは言うまでもありませんが、王に仕えるということにおいて、王宮の法度通りの生活をしなければなりません。王宮の法を中心として生活しながら、ついには法度を越えたところで王と共に永遠に暮らしたいと願い、王もその息子なしには生きていくことができず、永遠に共に暮らしたいと思う、そのような立場に立った人こそ、正に聖子なのです。

それでは、このように人間はいかに生きるべきか、あるいは私たちの人生航路はどう行くべきかを考えてみた時、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道には、共通の根本的骨子があるはずです。それこそ、永遠に共に暮らしたいと願う心なのです。上下、前後、左右を問わず共にいたいと思い、昼夜を越えて、生涯を越えて、共に暮らしたいと願う心があふれてくる、そのような生き方ではないか、という結論に至ります。

【後天時代の生活信仰p130-134より抜粋・編集】

Category: み言の学校