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完全投入

<成和学生会報2013年12月号掲載>お父様

 

為に生きる論理

創造の起源は、愛を中心として“為に生きる”論理でした。対象のために全てを投入すること、これが偉大なのです。ここから生活哲学が出てきます。愛は理想的な航海をしなければなりません。私たちがそのような目的世界に向かって、方向性を定めて生きていくためには、為に生きなければならないという生活哲学の論理が出てくるのです。完全投入しながら行く道以外には、真の愛の道に出会うことはできません。それは、完全に投入し、完全に“為に生きる”所においてのみ可能です。このようなことが、すべて理論的に生活哲学の基盤にならなければなりません。

投入して忘れてしまう人は、必ず中心存在になるのです。これは天理原則です。皆さんの兄弟なら兄弟、友人なら友人の中でも、全体の為に生きれば、自分が願わなくても自然に中心存在になります。私の為に生きなさいとすれば、すべて消えていきます。破壊されるのです。自分の為に生きる所は、破壊されるのでサタン側であり、人の為に生きる所は、全体が一つになるので天の側です。皆さんも、生活哲学において、このような原理的基盤を基調として立て、生活の全ての舞台を整備していかなければなりません。

私は、できる限り忘れてしまいます。世の中の困難だったことを、すべて忘れてしまいます。それが生活哲学です。記憶する必要がないのです。神様が堕落したことを今まで記憶していれば、どのように生きていくのですか。それを忘れてしまった立場で、再創造するために、自分を投入するために努力されたのです。ですから、神様の愛は、偉大な愛なのです。

 

“始小終大”

統一教会の教会員たちは、“終始一貫”ではありません。“始小終大”です。終わりが大きくなければなりません。その世界は、与えてまた与えようとするので大きくなるのです。堕落したので、復帰する過程においては、“終始一貫”です。それは、同じであってこそ合うからです。しかし、今後、私たちの世界は、自分を中心として自分が大きくなってはいけません。愛を中心として、真の愛が願う世界を一つにするにおいては、終わりが大きくなければならないのです。“竜頭蛇尾”は、私たちには必要ないのです。

私を捕まえて監獄に放り込んでも、“始小終大”の思想で絶対に後退しません。大きなものを前にしてぶつかるのです。ぶつかるようになる時、誰が守ってくれるのでしょうか。神様が守ってくださるのです。神様が主人であり、主体になるのです。

先生の生活の哲学は、どこに行っても一歩プラスするのです。山に登ってもそうです。すべて登りきったとしても、最後からまた1、2、3以上、11、12まで数えるというのです。最後にもう一歩歩いた、それが新たに発展する条件なのです。もう一歩でも行けば死なないというのです。サタン世界と競争すればそうです。

1分でも遅く寝て、1分でも先に起きるのです。神様はそれを願われています。遅れてきたり、進みながら一度でもとどまることを嫌われるのです。そのような生活哲学に立脚して、その哲学的な内容の価値を受け継いできたので、40年間でここまで上がってきました。

 

停止はあり得ない

文総裁は、今まで命を懸けてやってきました。のらりくらりではありません。決死的です。休む間がありません。停止というのは、最も恐ろしい言葉です。停止すれば、そこから下っていくのです。これは死亡と通じます。地獄と通じるのです。停止を否定しなければなりません。生きている存在は発展するのです。昨日よりも今日、明日よりも明後日、一つ加えなければなりません。少しのものでも加えていくのです。

文総裁が、今日迫害される世の中でこのような基盤を築いたのですが、その生活哲学の主流は何でしょうか。停止はあり得ないという思想です。私は80近い年齢になりましたが、停止することはできません。若い青年に負けることはできないのです。発展とは何ですか。復興に通じます。繁栄と同じ、天国と通じるのです。

【後天時代の生活信仰p110-114より抜粋・編集】

Category: み言の学校