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自然

<成和学生会報2013年7月号掲載>024

 

神様が創造された万物

一つの生命体を見るときに、「人間の作った何と比較になろうか。いくら素晴らしい人がいようと、神様より素晴らしいはずがあろうか」と、神様が心情を注いでおつくりになった万物を抱きしめて、何よりも貴く感じる者がいたとすれば、その人は間違いなく天の子女でしょう。このような人は、祈祷が必要ありません。神様とともに生きる人です。天は人間をそのような立場に押し出すのです。

皆さん、考えてみてください。人間は自分が愛する人の物は何でも愛し、かわいがります。違いますか?それでいて、一番愛すべき神様のお創りになった万物をかわいがることは知りません。こんな人間たちが神様の息子や娘になれますか?

創造の心情

嘆息する万物の恨みを解いてやる責任を負った皆さんは、一本の木、一本の草からも六千年前、それらをお創りになる時の神様の心情と創造のみ業を体恤しなければなりません。そういう心を持たなければなりません。

ですから統一教会の食口たちは、道を歩いていて野の草一本見ても涙するようでなければなりません。木を抱きしめて泣くことができなければなりません。「主人を失ってどんなに寂しかったか」と。一度そうしてごらんなさい。私はたくさんの涙を味わいました。岩を抱きしめて泣いたこともあれば、風が吹くのを見て泣いたこともあります。なぜ泣いたのか、もう話を聞きましたから分かるでしょう。

果たしてだれが万物に対し、先祖代々伝わる家宝より、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドより貴く思い、つかんで放すまいとするでしょうか。そういう人がどこにいますか? 神様は、ご自身のお創りになった万物を心から思いやり、それを抱きしめて涙する者を見て「よしよし」と言われるのです。どう思われるか考えてごらんなさい。

 

自然とは何か

自然とは何でしょうか。神様が私たちのために、為に生きる愛を持った息子や娘が生まれるとき、その愛を与える万物として、贈り物として与えた展示品です。鳥の鳴き声一つ、草一本といえども、愛する子供たちの生活を美化するために創られた作品だということです。道端に転がっている石も、子供たちが国を治める主人となることを思い、その国の装飾品として創ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、調和を極めた和合の園をつくり、愛のために生きる世界を見てそれを相続できる夢の王子、希望の王子を育てるために創造したのです。

自然を愛そう

博物館にある何かの作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に勝るものがありますか? 神様の作品である地球万物博物館を、だれが神様以上に愛したかというのです。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられてよれよれになったタンポポであれ、神様が直接おつくりになったものを博物館にある新羅時代の金冠と比べることができますか?祖国の地をそのように考えるのです。

そのような神様の心情を持って「お前を神様が主管できるように、本然の王の立場で、愛を受けていたその立場で愛することのできない自分が恥ずかしい。すまない」という心を持ち、立派な姿勢で万物を愛する王がいるならば、野の草もその王について行って、永遠にそばにいたいと思うものなのです。そのように生きなくてはならない人間なのです。

 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを皆さんは知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することのできる人は神様を愛するようになるのです。

【二世の道p42-44より抜粋・編集】

Category: み言の学校