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勉強をする姿勢

<成和学生会報2013年2月号掲載>nega018

精誠を尽くして勉強する

 一般的な人たちの場合も“志”と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。

 私たちは、何を勉強するにおいても、精誠を尽くすのであり、本を一ページ読むときにも、神様のために読むという心で精誠を尽くし読むのです。それも決して易しいことではありません。

深刻な心で勉強する

 先生は勉強するのもそのような心でします。勉強するときになぜ疲労を感じますか?自分のために勉強するから疲労を感じるのです。しかし、全人類が死ぬか生きるかという問題がここの1ページに懸かっていると、一文句に懸かっていると考えてご覧なさい。一単語を加えることで3000万が生き、一単語を減らすことで3000万が滅びるという心で、もっと精誠を尽くし、その一単語を増やそうという深刻な心で勉強してみろというのです。頭が悪いのはなぜ悪いのですか?皆さん、深刻な場で、あったことを忘れられますか?生命を懸けてしろというのです。皆さんがドキンドキンという心臓の鼓動する音を感じるときがあるでしょう。深刻ならばそうです。そんな深刻な場で皆さんが決心したことが忘れられますか?頭が悪いということも皆程度の問題だというのです。

 心が散漫だから覚えられないのであり、死地で自分が死ぬようになる瞬間が近づくのに、生きられる妙案が浮かんだとするとき、その妙案を記憶できますか、できませんか?皆さんが勉強をするときに、本1ページなら1ページをつかんで生命を懸けてそこに投入しろというのです。私は聖書を見るとき“これが何なのか”と深刻に考えれば、その問題を解決するために1年、2年、3年でも精誠を尽くしました。「ああ、それはこのようになったのだな」となる時まで根を引っ張るというのです。

世界のために勉強する

 自分のための道を行くときは、いつも失望のみが残ります。民族のため、世界のため行く道には、いつも望みがあります。なぜですか?民族と世界が復活していくためです。皆さんがこのような思想をもって生活し、生涯を生きていけば、現在自分に残るものはないとしても、その人は歴史的な人物として残るようになるのです。

 私たち人間は、日常生活で喜びを感じながら生きたいのです。喜ぶのを願うのに独りでは喜べないのです。人を通して喜ぶとか、次には物質を通して喜ぶとか、他の何か学問とか、このようなことを通して喜ぶようになっています。そのような生活の中で喜びを感じようとすれば、対象的な問題が時間が経つのにつれて、だんだんよい面に展開されなければなりません。そうでなくしては嬉しいことは続けられないのです。言い換えれば、喜びを感じるためには、相対的な刺激が絶対必要なものです。

目的をもって勉強する

 皆さんがある非常に大きな目的を定め、その目的を果たすためには、必ず時間と過程が必要なのですが、その過程をどのように克服していくのか、ということが問題になるのです。そうしようとすれば、その目的を中心として毎日のように生活環境で目的に対し対象的な刺激をどのように続けて受けていけるか、ということが重要な問題になるのです。

 それをある程度の期間までは、自分が決心して続けて維持していくかもしれませんが、その刺激が目的を果たすのに相対的要件として続けて残せなくなるときは、そこから脱落が起こり、失望が生まれ、失敗の要因が組成されることを私たちはよく知っています。それゆえ、私たち日常生活においてや、実在生活において、この刺激というものが、即、喜ばしい刺激であるとか、理想的な刺激がなくてはならないのです。いくつもの面でぶつかる環境にあっては、よい面の刺激は絶対に必要なものです。

 皆さんも世の中で勉強をして何になるという、こんな考えをすれば、そこに対する意欲を中心として、刺激をどうやって感じるかということが成敗の決定要因になるという事実を知っていることでしょう。いくらどんな目的を成就すると決心した人がいたとしても、その意欲からこのような刺激的な要因を取ってしまえば、その人はその目的を途中で放棄するとか、未完成なまま終わってしまうことでしょう。

【二世の道p200-202より抜粋・編集】

 

 

Category: み言の学校