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自由とは何か

<成和学生会報2013年1月号掲載>お父様

思いのままに生きることは自由か

 皆さんは“平和、幸福、自由”と言いますが、その自由とは何でしょうか?最近、一般の人々も“自由”だと言いますが、その自由とは何でしょうか? 「自分の思いのままに生きることが自由だ」と言うのですが、自分の思いのままに生きて、どこまで行けるというのでしょうか? すべてには、限界があるというのです。人間はどんなに生きても、百年以上長くは生きられないのです。その百年くらいの間に、私たちは自由を求めて生きていくのですが、もし法もなく、思いのままに生きるのが自由であるとするならば、その自由とは何でしょうか?

 今日、文化の世界が猖獗(たけだけしくも、あらあらしいこと)する中で、それを研究し、勉強することは易しいことでしょうか、難しいことでしょうか?研究室に閉じこもって、ひたすら頭にねじり鉢巻きをして研究することは自由でしょうか、拘束でしょうか?答えてください。何と解釈するのですか?勉強することが嫌であれば、勉強することは自由でしょうか、拘束でしょうか? (拘束です)。では、なぜ求めて回るのでしょうか?それが問題です。ですから、自由という概念を、どのように正すかということが問題になるのです。自分の思いのままに生きることが自由ではありません。

自由の定義

 それでは、女性としての自由とは何でしょうか?男性としての自由とは何でしょうか?人間としての自由とは何でしょうか?家庭としての自由とは何でしょうか?社会としての自由とは何でしょうか?国家としての自由とは何でしょうか?それが問題なのです。個人として、皆さんは自分の思いのままにすることができますか?すべてが自由であれば、「私は御飯を食べたくない」と言って、もし御飯を食べなければ、その人は死んでしまうのです。それもまた、しかたのないことです。

 さらに、「私は何も見ない。それも自由だ」と言って、何も見ないでいてごらんなさい。その人は、ただの盲になるのみです。それが問題なのです。それで、今日の西欧社会が滅びつつあるのです。彼らには、自由の定義が何か分からないのです。

幸福の中の自由

 幸福の中に自由があるのでしょうか、自由の中に幸福があるのでしょうか?何の中に幸福があればよいのですか?皆さん、自由の中に幸福があればよいでしょうか?(幸福の中の自由です)。今までは、それが分からなかったのです。このように尋ねた時、“自由の中の幸福”と考えるかもしれませんが、それは間違いです。自由も幸福の中に入って休むことを願うのであり、自由の中に幸福が宿るのではありません。幸福の中に自由が宿ろうとするのです。ですから自由というのは、一つの方向性であり、決定的行動にはならないのです。それは、副次的であって、一次的ではありません。

自由の三大原則

 自由とは、原理を離れた自由はないのです。既に、そのような観点から全部分析して、先生がそのような規定を下したのです。原理を離れた自由はありません。御飯を食べなくてはならない時に、御飯を食べなかったならば、それは、自由ではありません。お腹がすくし、副作用が起こります。御飯を食べなければ、自ら破壊するのです。ですから、原理原則を離れた自由はないのです。

 また、自由には責任が伴うのです。皆さんが行動した後に、悪い結果が残されているようではだめです。良い責任的立場で歩まなくてはなりません。自分が行動した後において、全体が見ても、その行動に尊敬できなくてはならないのです。ですから、自分が行動した後においては、善の実績が残されていなければなりません。それが、三大原則です。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。「それでは何が自由なのか?」と言うような人は、とんでもありません。家庭に帰って、「私は、お父さんお母さんの支配など受けたくない。私の思いどおりにするのが自由だ」という主張はできないことです。

 ですから、原理原則を離れた自由はありえず、責任を避けるような自由はありえないのです。必ず、行動して善なる実績を備えなければならないのです。

【真なる子女の道p137-140より抜粋・編集】

 

 

Category: み言の学校