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み旨を歩む決意

定州の猫頭山で召命を受けられる真のお父様未来に対する覚悟

 賢い人とは、難しい道を通して、未来の希望を抱いて行くことを決定した人であり、愚かな人とは、当面の幸福のために、未来を夢のように捨てる人です。先生も若かった時、そのような考えをしたでしょうか、しなかったでしょうか。青春時代は一度しかないのです。どんな道を選ぶかというのです。賢い人が選ぶべき道を選んだのです。そして、進んでいくにおいて、私が幸福になることのできる道を選ぶのか、国が幸福になることのできる道を選ぶのか、世界が、神様が幸福になることのできる道を選ぶのか。高い次元に比例して、その人格の価値だとか、歴史を支配する人間像が変わるのです。

 今日の皆さん自体が問題なのです。果たして私は、自分自身が明日を約束することができ、あすを保障することができる自らのその立場を決定したか、この問題が何より重要だというのです。今日楽しむことより、未来に希望を打ち立てることができる自らの覚悟と、自らの決意になっているかということが何より重要なのです。

 召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないのは、”いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を尋ねていかなければならない”ということです。いつでも尋ねていくために、努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありません。ここには、私自身も考えられないほど、いらだつ立場が多いのです。

 執念が必要なのです。この先生も、やはり執念を持った人なのです。私は永遠のために出発しました。執念を持たなければなりません。それが絶対に必要なのです。それから何かというと、克服が必要です。

出発の動機は神様

 救いの歴史に多くの事情を残しながら、今まで歴史の峠を越えに越えて、解決できないまま、門前まで神様が訪ねてきたというのです。すなわちレバレンド・ムーンが少年の時、神様が門前まで訪ねてきて通告しました。それがレバレンド・ムーンがこのみ旨を知り、出発した時だったのです。

 道を歩いていて、偶然誰かの話を聞いてこの道を出発したのではありません。ある牧師から感動を受けて、このことを始めたのでもありません。誰かに伝道されて、この道を行っているのでもありません。それでは、その動機の出発点はどこですか。それは神様です。

 私がこの道に進む時にも、「神様いますか」と最後まで探し求め、神様がいらっしゃることをはっきり知って出発しました。次には「神様に願いがありますか」と尋ねて、神様に願いがあることを知りました。また、「神様、私が必要ですか」とお尋ねして、私が必要なことを知りました。「それではどれくらい必要ですか」と問い詰めました。

 このように私が一度尋ね求めると、神様は、答えてくださるか、でなければふろしきを包んで他の所に行くか、しなければなりませんでした。

 そして、神様がいるならば、み旨を成就させることのできる冒険をする代表者として、神様が登場しなければならないと考えたのです。

 では、神様を知るには、どの程度まで知らなければならないでしょうか。神様の内情から事情、神様が行かねばならない目的地まで知らなければならないというのです。それで、このような問題を中心として、キリスト教の聖書から、すべての経典を探求してみました

 先生がみすぼらしい立場で、神様を知るようになる経験をし始めたのは数えの16歳の時からでした。それから9年間、先生はいつも全能なる神様、そしてイエス様と共に暮らしました。先生は何回にもわたり、霊界に入ってみました。順次に神様は、驚くべき真理を教えてくださいました。それはあたかも、長い長い暗い夜が過ぎ、朝日が昇るようなものでした。その真理の中で、私は光栄なる新しい文化の曙光を見ることができました。

 ここで教えてあげたことは、全部ふたで覆われていた未知の事実です。今まで人類歴史において覆われていた膨大なふたを全部開けて、それを連結して一つの理論的な体系を作って、それに実際的な事実と真理的な歴史的内容に一致させることができる結論を付けられるようにしたという事実は、驚くべきことなのです。

【真の御父母様の生涯路程1p124~128より編集・抜粋】

 (成和学生会報2012年12月号掲載)

Category: み言の学校