勉強をする姿勢
精誠を尽くして勉強する
一般的な人たちの場合も“志”と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。
精誠を尽くして勉強する
一般的な人たちの場合も“志”と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。
<成和学生会報2013年1月号掲載>
真のお父様のご聖和の後、真のお母様から“草創期の神霊と真理に満ち、愛にあふれて多くの人が集って来た教会を再建しよう”という決意が示されました。そして同時に、祝福子女(二世圏)に対する教育強化を緊急重要課題として指示されました。思うに、私たち一世が神様の摂理に参画し、教育され、実践を重ねて来ることができたのは、“統一原理”の故であります。この完成された真理なくして、正確な価値判断、指針、目指す理想世界(天一国)のビジョンはあり得ません。合わせて、真理に立脚した愛の実践があってこそ、私たちは罪と堕落性から解放され、人格完成と理想世界に至ることが出来るのです。
1.父母から神霊と真理の実体に
全国の成和学生の皆さん、お元気様です!
島根教区は松江教会、出雲教会、浜田教会、益田教会の4教会で構成されており、約150名の成和学生が所属しています。島根は出雲神話で有名な地域で、神話の故郷と呼ばれていますが、奥ゆかしさと芯の強さを合わせ持つ成和学生たちが活躍しています。
父祖の伝統を慕い敬う
アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの世界三大宗教伝統が共に父祖として敬慕する偉大な人物です。彼の人生とその家庭の歩みは、旧約のみ言の主要なコンテンツを成しており、今日でも世界人口の半数以上がアブラハムの生涯を模範として神様と共に生きる人生を営んでいます。私たちもその伝統の上に立っているので、アブラハム家庭の営みを、尊敬をもって見ることが必要です。
真の父母様は次のように言われました。
イエス・キリストの価値
今月からキリスト論を学んでいこうと思います。(予定論の最後の部分は予定説を裏付ける聖句の解釈ですが、原理講論をゆっくり読んで理解してください)キリスト論とは“イエス・キリストはどのような存在であるかの定義・・・キリストに纏わる事象や行為の意味などを、キリストとの関わりにおいて考察する神学分野(Wikipediaより抜粋)”です。つまり“イエス様とはこういう方だ”という学問を、広範囲に取り扱っているのがキリスト論だと言えます。
来日するにあたって
こんにちは、皆様。本当にありがとうございます。お会いできて嬉しいです。
まず、このように私が皆さんに会いに来ることを許可してくださった真のご父母様に本当に感謝いたします。みなさんもご存知のとおり、真のお父様が聖和されてからまだ100日経っていません。それで、私は仕事がない時は清平で真のお母様の横についていますので、お母様のもとを離れることを申し訳なく思っていました。
思いのままに生きることは自由か
皆さんは“平和、幸福、自由”と言いますが、その自由とは何でしょうか?最近、一般の人々も“自由”だと言いますが、その自由とは何でしょうか? 「自分の思いのままに生きることが自由だ」と言うのですが、自分の思いのままに生きて、どこまで行けるというのでしょうか? すべてには、限界があるというのです。人間はどんなに生きても、百年以上長くは生きられないのです。その百年くらいの間に、私たちは自由を求めて生きていくのですが、もし法もなく、思いのままに生きるのが自由であるとするならば、その自由とは何でしょうか?
今日、文化の世界が猖獗(たけだけしくも、あらあらしいこと)する中で、それを研究し、勉強することは易しいことでしょうか、難しいことでしょうか?研究室に閉じこもって、ひたすら頭にねじり鉢巻きをして研究することは自由でしょうか、拘束でしょうか?答えてください。何と解釈するのですか?勉強することが嫌であれば、勉強することは自由でしょうか、拘束でしょうか? (拘束です)。では、なぜ求めて回るのでしょうか?それが問題です。ですから、自由という概念を、どのように正すかということが問題になるのです。自分の思いのままに生きることが自由ではありません。
自由の定義
それでは、女性としての自由とは何でしょうか?男性としての自由とは何でしょうか?人間としての自由とは何でしょうか?家庭としての自由とは何でしょうか?社会としての自由とは何でしょうか?国家としての自由とは何でしょうか?それが問題なのです。個人として、皆さんは自分の思いのままにすることができますか?すべてが自由であれば、「私は御飯を食べたくない」と言って、もし御飯を食べなければ、その人は死んでしまうのです。それもまた、しかたのないことです。
さらに、「私は何も見ない。それも自由だ」と言って、何も見ないでいてごらんなさい。その人は、ただの盲になるのみです。それが問題なのです。それで、今日の西欧社会が滅びつつあるのです。彼らには、自由の定義が何か分からないのです。
幸福の中の自由
幸福の中に自由があるのでしょうか、自由の中に幸福があるのでしょうか?何の中に幸福があればよいのですか?皆さん、自由の中に幸福があればよいでしょうか?(幸福の中の自由です)。今までは、それが分からなかったのです。このように尋ねた時、“自由の中の幸福”と考えるかもしれませんが、それは間違いです。自由も幸福の中に入って休むことを願うのであり、自由の中に幸福が宿るのではありません。幸福の中に自由が宿ろうとするのです。ですから自由というのは、一つの方向性であり、決定的行動にはならないのです。それは、副次的であって、一次的ではありません。
自由の三大原則
自由とは、原理を離れた自由はないのです。既に、そのような観点から全部分析して、先生がそのような規定を下したのです。原理を離れた自由はありません。御飯を食べなくてはならない時に、御飯を食べなかったならば、それは、自由ではありません。お腹がすくし、副作用が起こります。御飯を食べなければ、自ら破壊するのです。ですから、原理原則を離れた自由はないのです。
また、自由には責任が伴うのです。皆さんが行動した後に、悪い結果が残されているようではだめです。良い責任的立場で歩まなくてはなりません。自分が行動した後において、全体が見ても、その行動に尊敬できなくてはならないのです。ですから、自分が行動した後においては、善の実績が残されていなければなりません。それが、三大原則です。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。「それでは何が自由なのか?」と言うような人は、とんでもありません。家庭に帰って、「私は、お父さんお母さんの支配など受けたくない。私の思いどおりにするのが自由だ」という主張はできないことです。
ですから、原理原則を離れた自由はありえず、責任を避けるような自由はありえないのです。必ず、行動して善なる実績を備えなければならないのです。
【真なる子女の道p137-140より抜粋・編集】