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Archive for 3月, 2014

勉強をする姿勢

<成和学生会報2013年2月号掲載>nega018

精誠を尽くして勉強する

 一般的な人たちの場合も“志”と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。

お前たちを愛している

<成和学生会報2013年2月号掲載>

井出成和部長

私たちを愛している神様

 全国の成和学生の皆さんこんにちは!

 “おまえたちを愛している”この言葉は、第2回11地区高校生原理修練会において、原理講義とお父様の生涯路程が終わり、閉講式で“この子たちにどのようなことを話したいですか?”と神様に尋ねた時に返ってきた言葉です。その時、ご父母様の思いが私の胸の中に溢れて涙が出そうになりました。閉講式で修練生にこの言葉を伝えた時、涙で言葉がつまり、終わりの祝祷では嗚咽してしまい言葉になりませんでした。神様が、本当に私たちを愛していると痛感した時でした。

2013年原理教育の徹底、信仰と学力を確立した学生の育成へ

<成和学生会報2013年1月号掲載>

 真のお父様のご聖和の後、真のお母様から“草創期の神霊と真理に満ち、愛にあふれて多くの人が集って来た教会を再建しよう”という決意が示されました。そして同時に、祝福子女(二世圏)に対する教育強化を緊急重要課題として指示されました。思うに、私たち一世が神様の摂理に参画し、教育され、実践を重ねて来ることができたのは、“統一原理”の故であります。この完成された真理なくして、正確な価値判断、指針、目指す理想世界(天一国)のビジョンはあり得ません。合わせて、真理に立脚した愛の実践があってこそ、私たちは罪と堕落性から解放され、人格完成と理想世界に至ることが出来るのです。

1.父母から神霊と真理の実体に

島根教区成和学生会

<成和学生会報2013年1月号掲載>中和文化祭中国大会でのエンターテイメント(決めのポーズ)②

 全国の成和学生の皆さん、お元気様です!

 島根教区は松江教会、出雲教会、浜田教会、益田教会の4教会で構成されており、約150名の成和学生が所属しています。島根は出雲神話で有名な地域で、神話の故郷と呼ばれていますが、奥ゆかしさと芯の強さを合わせ持つ成和学生たちが活躍しています。

神様と共に歩んだ父祖たち その2:イサク①

<成和学生会報2013年1月号掲載>RebeccaAtTheWell_Giovanni

父祖の伝統を慕い敬う

 アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの世界三大宗教伝統が共に父祖として敬慕する偉大な人物です。彼の人生とその家庭の歩みは、旧約のみ言の主要なコンテンツを成しており、今日でも世界人口の半数以上がアブラハムの生涯を模範として神様と共に生きる人生を営んでいます。私たちもその伝統の上に立っているので、アブラハム家庭の営みを、尊敬をもって見ることが必要です。

 真の父母様は次のように言われました。

原理講論を読もう♪㉞

<成和学生会報2013年1月号掲載>20121225_110909

イエス・キリストの価値

 今月からキリスト論を学んでいこうと思います。(予定論の最後の部分は予定説を裏付ける聖句の解釈ですが、原理講論をゆっくり読んで理解してください)キリスト論とは“イエス・キリストはどのような存在であるかの定義・・・キリストに纏わる事象や行為の意味などを、キリストとの関わりにおいて考察する神学分野(Wikipediaより抜粋)”です。つまり“イエス様とはこういう方だ”という学問を、広範囲に取り扱っているのがキリスト論だと言えます。

感謝する生活

<成和学生会報2013年1月号掲載>IMG_2519②

来日するにあたって

 こんにちは、皆様。本当にありがとうございます。お会いできて嬉しいです。

 まず、このように私が皆さんに会いに来ることを許可してくださった真のご父母様に本当に感謝いたします。みなさんもご存知のとおり、真のお父様が聖和されてからまだ100日経っていません。それで、私は仕事がない時は清平で真のお母様の横についていますので、お母様のもとを離れることを申し訳なく思っていました。

自由とは何か

<成和学生会報2013年1月号掲載>お父様

思いのままに生きることは自由か

 皆さんは“平和、幸福、自由”と言いますが、その自由とは何でしょうか?最近、一般の人々も“自由”だと言いますが、その自由とは何でしょうか? 「自分の思いのままに生きることが自由だ」と言うのですが、自分の思いのままに生きて、どこまで行けるというのでしょうか? すべてには、限界があるというのです。人間はどんなに生きても、百年以上長くは生きられないのです。その百年くらいの間に、私たちは自由を求めて生きていくのですが、もし法もなく、思いのままに生きるのが自由であるとするならば、その自由とは何でしょうか?

 今日、文化の世界が猖獗(たけだけしくも、あらあらしいこと)する中で、それを研究し、勉強することは易しいことでしょうか、難しいことでしょうか?研究室に閉じこもって、ひたすら頭にねじり鉢巻きをして研究することは自由でしょうか、拘束でしょうか?答えてください。何と解釈するのですか?勉強することが嫌であれば、勉強することは自由でしょうか、拘束でしょうか? (拘束です)。では、なぜ求めて回るのでしょうか?それが問題です。ですから、自由という概念を、どのように正すかということが問題になるのです。自分の思いのままに生きることが自由ではありません。

自由の定義

 それでは、女性としての自由とは何でしょうか?男性としての自由とは何でしょうか?人間としての自由とは何でしょうか?家庭としての自由とは何でしょうか?社会としての自由とは何でしょうか?国家としての自由とは何でしょうか?それが問題なのです。個人として、皆さんは自分の思いのままにすることができますか?すべてが自由であれば、「私は御飯を食べたくない」と言って、もし御飯を食べなければ、その人は死んでしまうのです。それもまた、しかたのないことです。

 さらに、「私は何も見ない。それも自由だ」と言って、何も見ないでいてごらんなさい。その人は、ただの盲になるのみです。それが問題なのです。それで、今日の西欧社会が滅びつつあるのです。彼らには、自由の定義が何か分からないのです。

幸福の中の自由

 幸福の中に自由があるのでしょうか、自由の中に幸福があるのでしょうか?何の中に幸福があればよいのですか?皆さん、自由の中に幸福があればよいでしょうか?(幸福の中の自由です)。今までは、それが分からなかったのです。このように尋ねた時、“自由の中の幸福”と考えるかもしれませんが、それは間違いです。自由も幸福の中に入って休むことを願うのであり、自由の中に幸福が宿るのではありません。幸福の中に自由が宿ろうとするのです。ですから自由というのは、一つの方向性であり、決定的行動にはならないのです。それは、副次的であって、一次的ではありません。

自由の三大原則

 自由とは、原理を離れた自由はないのです。既に、そのような観点から全部分析して、先生がそのような規定を下したのです。原理を離れた自由はありません。御飯を食べなくてはならない時に、御飯を食べなかったならば、それは、自由ではありません。お腹がすくし、副作用が起こります。御飯を食べなければ、自ら破壊するのです。ですから、原理原則を離れた自由はないのです。

 また、自由には責任が伴うのです。皆さんが行動した後に、悪い結果が残されているようではだめです。良い責任的立場で歩まなくてはなりません。自分が行動した後において、全体が見ても、その行動に尊敬できなくてはならないのです。ですから、自分が行動した後においては、善の実績が残されていなければなりません。それが、三大原則です。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。「それでは何が自由なのか?」と言うような人は、とんでもありません。家庭に帰って、「私は、お父さんお母さんの支配など受けたくない。私の思いどおりにするのが自由だ」という主張はできないことです。

 ですから、原理原則を離れた自由はありえず、責任を避けるような自由はありえないのです。必ず、行動して善なる実績を備えなければならないのです。

【真なる子女の道p137-140より抜粋・編集】

 

 

右手に神様、左手に世界を抱け!

<成和学生会報2013年1月号掲載>

石原Jr.STFディレクター

新年の挨拶

 全国の成和学生の皆さん、こんにちは。

 2013年が始まりました。2012年を反省し、来年の2014年に、どのような自分になっていたいかという目標を明確に立てて、この一年を出発していけるようにしましょう。よく“今年の漢字”と言って、その一年を漢字一文字で表すように、自分にとっての2012年の漢字、そして2013年に目標とする漢字を定めて、年の初めに書き初めしてみるのも良いかもしれません。ちなみに、私の2012年の漢字は“新”でした。

心に残るお父様の笑顔

 真のお父様を思う時、私には忘れられないお父様の姿があります。それは初めてお父様にお会いした時のことです。その時、お父様は清平で食口たちにみ言を語っていらっしゃいました。

 私は初めてお父様から直接メシヤのみ言を聞いたにも関わらず、その時のお父様のみ言は何も覚えていません(笑)。覚えているのは、お父様の笑顔と行動です。お父様は、「今でも先生はこんなこともできるんだ!若い者には負けないんだよ。」とおっしゃいながら、壇上に腰を付いて両足の裏を合わせ、身体を丸める柔軟体操を見せてくださいました。私がお父様を思い出す時、その時の本当に若々しく嬉しそうなお父様のお姿が、心に浮かんでくるのです。その度に、“今、自分はお父様より若々しいか”と、自分に問い掛けるものです。

世界を変えたキリスト教徒たち

 お父様は9月3日に聖和され、既に地上にはいらっしゃいません。お父様の声を聞きたくても聞くことができず、お父様の笑顔を見たくても、もう直接お会いすることはできないのです。お父様が生きておられた時、一度もお父様にお会いできなかった人もいると思います。そんな皆さんは、“お父様にお会いできなかった‥”という無念の思い、愛の減少感を感じることもあるかもしれません。お父様は今、私たちをどのように見つめておられるのでしょうか。

 お父様は、誰よりも神様を愛し、神様の夢を実現しようと生きられた方でした。その姿は、2000年前、十字架上で最期の瞬間まで神様の真の愛を示されたイエス・キリストの姿と重なります。今や世界は、イエスの生誕によって暦を数える西暦を用いています。イエスを中心として、世界は新しく始まったのです。そのように世界を変えたのは、イエスの愛と福音に感動し、その人生を捧げたキリスト教の人々でした。

 そしてそれは、イエスが生きておられた時に共に歩んだ人々ではありませんでした。むしろイエスが亡くなった後、直接イエスに会ったことがない人々が活躍したのです。彼らはメシヤに直接会えなかったとしても、その人生から真の愛を学び、福音を愛し述べ伝えていったのです。第一弟子のペテロもまた、イエスが十字架にかかられる時、イエスを裏切った立場に立ちました。その後霊的イエスに再び出会って、伝道の道を出発していったのです。

基元節を越えて

 私たちは今、2月22日(天暦1月13日)の基元節を迎えようとしています。基元節は実体的天一国の出発となる日であり、真の父母様を中心とする新しい時代が始まる時です。キリスト教がイエスの死後、世界を変えていったように、この世界を神様を中心とする世界へと実際につくりかえていく時は、お父様が生きてみ旨を進められた時代を経て、むしろこれから始まるのです。

 その担い手となるのは、お父様に会ったことがあるかどうかではなく、お父様に直接会えなかったとしても、“お父様の人生を慕いそのみ言を愛し実践していく人”です。そのような人が、実は最もお父様の心情に近く、お父様との思い出をつくっていく人に違いないのです。

 私たちに、“もうお父様にお会いできない”という寂しさがあるとしても、私たち以上にそのような心情を持たれているお父様だと思います。私がかつてお会いしたお父様は、食口たちと触れ合う時、食口たち以上に嬉しそうにされるお父様だったからです。本当の親、家族のように。

 そうして、“悲しんでいる暇はないんだ!”と、私たちを激励してくださっているお父様なのではないでしょうか。

 最後に、私が座右の銘としているお父様のみ言を紹介します。「私たちの夢は、右手で神様をつかみ、左手で世界をつかんで生きていくことです。」(二世の道p.118)

 お父様は、神様と人類のために人生を生き抜かれました。私たちは、お父様のように、右手に神様、左手に世界を抱きながら、将来に備え、今に投入する成和学生となりましょう。