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原理講論を読もう♪㉘

20120615_190121②キリスト教から見る復活

 今号からは、前編第5章『復活論』について考えていこうと思います。この復活論とは、“イエス様の復活について”という意味です。イエス様は十字架にかかって肉体の死を迎え、お墓に運ばれます。3日後、イエス様を慕う女性がイエス様の死体に香油を塗ろうと墓を訪ねたところ、お墓がもぬけの殻になっているのを発見します。そこに天使が現れてこう言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない」(マルコ16・6)

 そしてイエスは弟子たちの前に現れながら、福音を世界に伝えるよう語りかけます。実は、イエス様は十字架にかかる前から「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきこと」(マルコ8・31)を弟子たちに預言されていました。その預言通り復活されて弟子たちと40日間を過ごされた後、また天へと戻られました。このイエス様の復活が、キリスト教の復活信仰の根本となっており、今でも終末にはイエス様が復活して世界を裁くと信じているのです。(ちなみにキリスト教の信仰によれば復活するのはイエス様だけではなく、これまで死んだ善人、悪人全てが含まれています。)このように、キリスト教における復活とは“(肉体の死から)再び(肉体が)活きる”ことを意味していますが、原理講論の復活論では“復活とは本当はどういう意味なのか?”ということに、焦点を当てて説明しています。ここでは原理講論に沿って、復活の意味を考えていこうと思います。

原理講論から見る復活

 上述したように復活とは、“再び活きる”ことを意味しますが、それではここで言う“死”とはどのようなことを意味するのでしょうか?“死”について書かれている代表的な聖句を例に考えてみましょう。「(イエスは)またほかの人に『わたしに従ってきなさい』と言われた。するとその人が言った、『まず、父を葬りに行かせてください』(イエスは)彼に言われた。『その死人を葬ることは死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を告げひろめなさい』」(ルカ9・59~60)

 ここでイエス様はふたつの“死”について語っておられます。ひとつの“死”は、語りかけた人の、亡くなって葬られなければいけない父親の“死”です。これは肉体がその機能を失うという、一般的に私たちが理解している“死”を意味します。しかし、イエス様は父親の葬式を執り行う人たちまでも“死人”と呼んでいます。彼らは葬式を執り行う肉体を持った“生きている人”であるにも関わらず、何故イエス様は彼らを“死人”と呼んだのでしょうか?

 それは、たとえ肉体は生きていたとしても、イエス様から離れてサタンの主管圏内にいる人だからです。神(イエス)の主管圏内から離れ、サタンの主管圏内にいるということは、神様が本来創造されるべき人間の価値から見ると、死んでいるも同然であるため、イエス様は“生きている人”を“死人”と呼んだのです。

 人間始祖のアダムとエバも同じです。神様はアダムとエバに「善悪を知る木の果から取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」(創世記2・17)と戒めを与えられました。アダムとエバは、神様の戒めを守らず善悪を知る木の果を取って食べましたが、彼らが死ぬことはありませんでした。このように、アダムとエバも肉体は生きていましたが、神様の主管圏から離れてしまうため神様は“死ぬ”と表現されたのです。善悪を知る木の果を取って食べた後、エデンの園を追放されたというのは、神様の主管圏から離れたことを如実に言い表しています。

復活と死の霊的関係

 元々人間は、時間の経過によって肉体が衰え“死”を迎えるようになっています。これは神様がそのように創造されたためで、肉体が死なない人間は誰一人としていません。イエス様も十字架にかからなかったとしても、寿命が来れば間違いなく“死”を迎えたでしょう。しかし、たとえ肉体が死んだとしても、神の主管圏内にいる者は霊的に見れば“生きている”のです。イエス様が「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と言われたのはこういう理由があるからです。

 このように、復活の意味とは“(肉体の死から)再び(肉体が)活きる”ではなく、“サタンの主管圏から神様の主管圏に復帰されていく過程的な現象”を意味しているのです。私たちが生活の中で信仰生活を行い、前日よりも神様に近づくことができれば、私たちはその分だけ霊的に“復活”したことになるのです。このように“復活”とは普段“死”とは全く関係ない私たちとも、密接な関係があるのです。

Category: 誌面説教②