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神の実存

神の実存を知る26-2

 人間はいったいどのようにして生まれたのでしょうか。人間はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。自分自身が第一原因的存在だと主張する人は一人もいません。原因はわかりませんが、結果的な存在として生まれたのです。結果的な存在として生まれた人間には、原因があるに違いないため、第一原因的存在として提示すべき何者かが存在しなくてはならないのです。ですから、神様についての問題を中心にした(考えた)上で、自分自身についての答えを出さなければなりません。神様を知った土台の上でのみ、自分個人の人生観というものが設定され、家庭がどのように進み、社会がどのように進んでいき、国家がどのように進み、世界がどのように進み、将来、世界の終末はどのようになる、という方向を設定できるのです。それは自分だけの方向ではありません。ですから、人間についての問題と、原因的な存在である神様がいるかどうかの問題を知らなければなりません。

 世界が一つになれなかったのは、中世のローマ教皇庁が本当の神様を教えてあげられなかったからです。そこから、世界が人本主義に転落してしまったのです。神様はいない、というわけです。妄想だ、虚構だ、というわけです。

 宗教には神様の究明が必要ありません。宗教というのは、神様を見出し、神様と共に生きようとするものです。それも理想的に生きようとする生活理念になっています。人生の幸福を神様と共に追及するのです。ですから真の宗教は神様と共に生きる宗教です。

 思想の問題も、神様を知らなければ解決できないのです。共産主義は唯物論を主張し、物質主義ですが、これを解決するにおいても神様を知らなければだめなのです。“神様はいない”というその主義を完全に滅ぼし、“神様はいるのだ”ということをはっきりと120%認識させなければなりません。神様を知らずしては、何事も解決できないのです。

自然にわかる

 人類が堕落しなったなら、神様がいるかどうかということを問う必要もありませんでした。それは本心でわかるのです。つまり、人類が堕落せず善の父母としてこの宇宙に現れ、家庭を成し、その家庭が繁殖してこの人類世界をつくったなら、今日の人類は神様がいるとかいないとかで論じ合う必要はなかったのです。血統がつながっているので、体でわかるのです。そこには説明が必要ありません。堕落により、神様と隔離された立場から出発して個人・家庭・氏族・民族・国家・世界と進んできたために、神様がいるかどうかを論ずるこのような世界になったのです。

 人類は堕落しなかったならば神様との関係を自動的に知って、自動的に解決して、自動的に行くべき方向を知ったことでしょう。ところが、堕落によってすべてわからなくなってしまったのです。だから神様がいるかどうか、疑う世界になったのです。

神様の偏在性

 人間の始祖であるアダム・エバが堕落しなかったなら、神様の愛を中心に一体となり理想の実体を成したことでしょう。そして、神様は私たちの内的父母となられ、アダム・エバは外的父母になるのです。地上の世界が地上だけで孤立するのではなく、神様を中心とする霊界が地上を代表した人類始祖と完全に一つになるため、神様を中心とした霊界は内的な面を表し、アダム・エバを中心としたこの地上は外的な面を表して一体になるのです。

 では、神様はどこにおられるのでしょうか。霊界ではなく、私たちの心の中心におられるようになるのです。すなわち、心の中心におられる神様と心の命令を受けるアダム・エバは一心同体なのです。それでは、皆さんは神様の偏在性をどうやって感じることができるでしょうか。それは、空気を神様の息吹のごとく感じ、台風が来たら、神様が世界のために苦難の道を克服してこられながら流された涙のように感じることができるのです。太陽を見るときには、その太陽がこの宇宙全体の生命の源を象徴することを知って、神様の愛を太陽に学べということです。

 神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本として、教材として発展したもの、愛する子供たちを喜ばせるための教材として作られたものが自然ではないですか?そうなのです。木の葉を見て自分の息子や娘のように思い、独りで語りかけることのできる人がいたなら、その人は聖人に近い人なのです。

【二世の道p18より編集・抜粋】

Category: み言の学校