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預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その7:イザヤ①

会堂で教えられるイエス様

 公生涯のはじめ、イエス様はガリラヤ地方で教えを宣べ伝えていました。ある安息日に故郷のナザレの会堂に入り、ユダヤの習慣に従って聖書を拝読しようとしました。イエス様が手渡されたのは預言者イザヤの書でした。その箇所を旧約聖書に戻って引用すると、次の通りです。

 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」(イザヤ61・1-3)

 聖書を読み終えたイエス様は「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4・21)と言い、続けてみ言を語られました。その内容があまりにも素晴らしく、会衆は皆感動しました。しかし、ユダヤの人々は、ヨセフの子がなぜそのようなみ言を語るのかと驚き怪しみ、とうとうイエス様を会堂からも町からも追い出し、崖から突き落とそうとまでしました。

 イエス様は確かに、預言者イザヤが語ったことを成就するために来られた方でした。油注がれた者(メシヤ)として福音を告げるために来た、人類を神の下に連れ帰り、神様の喜びと栄光を取り戻す者がここにいる、とはっきりと宣布したいイエス様だったことでしょう。しかし、そのようにあからさまに説くことができず、預言者のことばを借りてしか語ることができなかったイエス様でした。「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。」(ルカ4・24)この時こう言われたのでした。

主の到来を告げる預言者

 イエス様の復活に立ち会い、聖霊降臨の恵みに与った弟子たちは、イザヤの預言の中に、地上では知り得なかったイエス様の本来の姿を見い出していきます。この方のことを、神様はあらかじめ預言者を通して語っておられたのだと理解したのです。

 マタイ福音書は、イエス・キリストの誕生の物語に、イザヤの預言を引用します。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ1・23)

 これは、もともとは南ユダ国を治めていたアハズ王にイザヤが告げた神様のメッセージでした。列強に囲まれたユダ国に希望のしるしを与えるというものでした。そして、国難の中にあって“インマヌエル(神われらと共におられる)”という方に信頼し、その方を遣わす万軍の主に希望をおくことを求めます。

 イザヤは続けてこう語ります。「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。」(イザヤ8・16-18)

 イザヤは、時が満ちるまでは神様も語ることができないみ言があり、預言者の存在自体が来るべき時を指し示すしるしであることを悟ります。イエス様も、故郷を追われ、本来語りたかったことを封印したまま、時のしるしとして振舞いました。

平和の君

 それでも、預言者イザヤは、メシヤ王の到来を告げます。「異邦人のガリラヤに栄光を与えられる」(イザヤ9・1)と言い、今日では、クリスマスには必ず読まれる希望のメッセージを続けます。

 「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。…ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ9・2,6)

 イエス様はガリラヤの地ナザレの出身でした。天の父である神様は“平和の君”として、天の権能をもって真の愛で地上を統べ治める方としてイエス様を送りました。南北王朝時代の預言者イザヤは明確には知らなかったけれども、預言を残し未来に希望を託しました。その希望の主が排斥され、殺されようとは、神様も、当の選民さえも夢にも思わなかったことでしょう。

Category: 誌面説教