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原理講論を読もう♪㉗

イエス様を信じられなかったユダヤ民族sashie2

 前号に続いて原理講論第4章『メシヤの降臨とその再臨の目的』について学んでいこうと思います。今回学んでいくポイントは“イエス様と洗礼ヨハネの違い”と“なぜイエス様が十字架にかかることを預言した聖句があるのか?”という点です。

 洗礼ヨハネは自分が“エリヤ”としての的使命を持っているということを知りながらもイエス様に従うことを拒み、別々の道を歩みました。ユダヤ民族は“洗礼ヨハネはエリヤである“と語ったイエス様よりも、“自分はエリヤではない”と語った洗礼ヨハネを支持しました。なぜユダヤ民族はイエス様よりも洗礼ヨハネの語ることを信じたのでしょうか?それは洗礼ヨハネとイエス様にいくつかの違いがあったからです。

 最初に洗礼ヨハネはユダヤ民族の中でも有望な若手のリーダーでした。誕生のエピソードは前号で説明しましたが、彼の修道生活、水によるバプテスマ(洗礼)はユダヤの中でも知らない者がいないほど洗礼ヨハネを有名にし、彼を信望する人の多さはユダヤ教の派閥の中でも無視できないほどの勢力となっていました。また領主ヘロデが異母兄の妻を娶ったことに対して声高らかに“姦淫”の罪を訴えるなど、既成権力に対してもたじろぐことのない行動力はユダヤ民族の中でも一目置かれるようになり、民衆への影響力を持っていました。

 反面、イエス様はエルサレム郊外の馬小屋で生まれるほど人々の関心とはかけ離れた場所でお生まれになりました。イエス様が誕生した時に東方の博士や羊飼いは集まりましたが、世間的な注目を浴びることはありませんでした。またイエス様は幼少時代から公生涯まで特別な記述があまりありません。これはイエス様が公生涯まではほとんど社会的に目立った行動を取っておられなかったことの裏返しでもあります。ですから洗礼ヨハネに出会った時点でイエス様は世間的な認知度がほとんどない、人々から見ればどこにでもいる青年だったと言えます。このようにユダヤ民族の目からは社会的に無名であるイエス様よりも、洗礼ヨハネの方が信じるに値する人物だったのです。

新しい神観を説かれたイエス様

 次に洗礼ヨハネとイエス様が民衆に語る神観にも大きな違いがありました。洗礼ヨハネの神観は旧約時代から守られてきた“契約の神”、つまり神の言を守る者には祝福を与え、そうでない者には厳罰を与えるものでした。

 「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると誰が教えたのか。だから悔改めにふさわしい実を結べ…だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」(マタイ3・7)

 洗礼ヨハネが語る神は、善(律法を守ること)を行う者にとっては神ですが、悪(律法を守らないこと)を行う者にとっては審判主でしかありませんでした。この神観はユダヤ民族が古くから持ち続けてきた神観であり、強弱の程度はあっても、人々が比較的受け入れやすい神の姿でした。

 逆にイエス様が語る神は、これまでユダヤ民族が接したことのない神観でした。イエス様は“愛の神”、“赦しの神”を強調し続けました。神は善なる人だけのものでなく、罪人にとっても神であり、彼らの罪は神によって赦される、と語られたのです。

 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である…わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・12)

 他にも「右の頬を打たれたら、左の頬までも」「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」というイエス様の言葉はユダヤ民族にとって非常に新鮮で、ユダヤ教の神観からすると規格外のものばかりでした。イエス様は十字架にかかられる際にも「父よ彼らをゆるしてください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と自らの言葉通り、無償の赦しを実践されます。しかしこうしたユダヤ教の教えとはまったく違うように思えるイエス様の神観はユダヤ民族にとって受け入れ難かったに違いありません。それはユダヤ教を熱心に信仰する者であればあるほど受け入れ難かったと思います。そのため原理講論では新しい真理に触れる際には固定観念にとらわれてはいけないと強調しています。

人間の果たすべき責任分担

 最後に、聖書を見るとイエス様が必然的に十字架にかかることを預言している聖句が出てきます。こういった聖句はキリスト教において“イエス様は十字架にかかるために降臨された”という教理の根拠にもなっています。それとは逆に、イエス様がこの世の王となられ神の王国を築くことを預言している聖句もあります。なぜこうした正反対の聖句が存在するのでしょうか。その理由は“人間の責任分担”にあります。創造原理で学んだように、人間は完成するために自己の“責任分担”を果たしてのみ完成することができます。神の摂理でも同じように、人間(アベルとカイン)が責任分担を果たさなければいけません。人間が責任分担を果たせば摂理は成就されますし、果たすことができなければ摂理は成就されません。そのため聖書には人間が責任分担を果たした場合の聖句(イエス様が神の王国を建設される内容)と責任分担を果たせなかった場合の聖句(イエス様が十字架にかかる内容)の二つが存在するのです。

 イエス様が十字架にかかってしまったのは洗礼ヨハネを含め、当時の人々がイエス様を信じるという責任を果たせなかったため起きてしまった悲劇でした。再臨主を迎えている私たちは、イエス様の時代の失敗を繰り返すことのないよう、自らの責任分担が何かを問いかけ、それを果たしていける者となりましょう。

Category: 誌面説教②