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原理講論を読もう♪㉖

洗礼ヨハネイエスの洗礼

 前号に続いて原理講論第4章『メシヤの降臨とその再臨の目的』について学んでいこうと思います。今回学んでいくポイントは“洗礼ヨハネの使命”と関連させて“なぜイエス様が十字架にかかることを預言した聖句があるのか?”という疑問を解いていこうと思います。

 イエス様の公生涯で最初に出てくる主要人物は洗礼ヨハネです。イエス様と洗礼ヨハネが始めて出会った時、イエス様が全く無名の青年だった反面、洗礼ヨハネはユダヤ教徒の中で注目される若手のリーダーでした。洗礼ヨハネは祭司長ザカリヤと妻エリザベツの家庭に生まれましたが、その誕生エピソードがあります。ザカリヤとエリザベツは非常に信仰に篤く、正しい人でしたが、子供に恵まれず、子供を生むことのできない年齢になっていました。ところがザカリヤが祭司の仕事をするために聖殿の聖所(ユダヤ教で神様がおられると信じる場所。特別な祭司しか入ることが許されていない聖なる場所)に入ると、天使長ガブリエルが現れ、ザカリヤにこう伝えます。

 「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むだろう。その子をヨハネと名づけなさい・・・彼は主のみまえに大いなる者となり・・・イスラエルの多くの子らを、主なる神に立ち返らせるであろう」(ルカ1・13)

 これ以上嬉しい知らせはありませんが、年老いたザカリヤはガブリエルの言葉を信じることができませんでした。するとガブリエルはヨハネが誕生するまでザカリヤの口をきけなくしてしまいます。そして時が満ちてヨハネが生まれた時、ザカリヤがガブリエルに言われたとおり彼の名前を“ヨハネ”と名づけると、彼は突如口がきけるようになり、神を褒め称えたといいます。このできごとは民衆の驚きと共に、ユダヤ中に広まり、ヨハネは生まれた時から多くの人の注目を浴びる存在となりました。

 ヨハネは天使長ガブリエルの預言通り、神を畏れる者となり、自らを荒野へと導き、修道生活を行いました。修道生活を行っているヨハネを聖書では「らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた」(マタイ3・4)と表現しています。現代からは考えられない服装と食生活をしながら、ヨハネは神の道を歩んでいたのです。荒野で修道生活をしていたヨハネはヨルダン川で人々の罪を洗い流すための洗礼(バプテスマ)を与えるようになります。これが“洗礼ヨハネ”と呼ばれる由来です。人々は我先に洗礼を受けようとヨハネの元に集まりました。民衆はメシヤを待ち望んでいたので、洗礼ヨハネこそもしかしたらメシヤではないかと考えるほどでした。(ルカ3・15)

ヨハネの使命と不信

 そんな民衆の人気が絶頂に達しているとき、イエス様は洗礼ヨハネにヨルダン川で出会います。イエス様が洗礼ヨハネの洗礼を受けようとすると、洗礼ヨハネはこのようにイエス様を証します。

 「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のある方が、おいでになる。わたしにはそのくつのひもを解く値うちもない」(ルカ3・16)

「見よ、世の罪を取り除く子羊。『わたしのあとに来るかたは、私よりもすぐれたかたである・・・』とわたしが言ったのは、この人のことである」(ヨハネ1・29)

 洗礼ヨハネはイエス様がメシヤであることがよくわかっていました。洗礼ヨハネは荒野での修道生活を通して、神様が送られたメシヤがイエス様であり、そしてイエス様を民衆にメシヤとして証し、イエス様の一番弟子になって支えていくことが自らの使命であるとわかっていました。だからこそ最初はイエス様をメシヤとして証したのです。そしてイエス様は洗礼ヨハネを指して「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(洗礼ヨハネ)こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ11・14)と表現しています。“エリヤ”とはユダヤ教で有名な預言者の名前です。ユダヤ教にはメシヤが現れる前にエリヤが地上に降臨し、メシヤが地上に来られる準備をすると信じられてきました。そのためユダヤ民族がメシヤを待ち望む心情は、そのままエリヤの降臨を待ち望む心情でもあったわけです。イエス様の弟子がイエス様をメシヤであると主張すると、ユダヤ民族は口を揃えて問い返します。「それではエリヤはどこにいるのか?」と。

 イエス様はメシヤであるご自分を最も近く、最も強く支えてくれる“エリヤ”の役割を洗礼ヨハネに期待していました。もしも洗礼ヨハネがイエス様をメシヤとして支えていたならば、洗礼ヨハネに従っていた多くのユダヤ民族はイエス様をメシヤとして信じ、従ったでしょう。また洗礼ヨハネは祭司長の息子でもありましたので、ユダヤ教指導者にもイエス様を証する道が開けたはずです。しかし洗礼ヨハネはメシヤであるイエス様に従うことができませんでした。聖書には洗礼ヨハネがイエス様を不信する過程は載っていません。洗礼ヨハネは自らがエリヤであることを否定し、イエス様を離れ、それでもメシヤであるイエス様に従うべきかどうか迷っている姿だけが間接的に表現されています。(ヨハネ1・21/マタイ11・3)

 洗礼ヨハネがイエス様を不信したことでユダヤ民族はイエス様に繋がる道を失ってしまいます。こうして洗礼ヨハネを中心とした神様の摂理は失敗に終わり、イエス様はお一人で摂理を再出発しなければいけなくなります。次号ではイエス様と洗礼ヨハネの違い、そして十字架に関する聖句について考えていこうと思います。

Category: 誌面説教②