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真の学生

学生の位置と責任28

 人はだれでも自分の所属が無ければなりません。家庭に入れば父母に侍る息子・娘、あるいは母親・父親の位置を持っていなければならないのです。人それぞれに位置があり、その位置で関係を結んでいるので、任されたところの責任を私たちは果たそうとしているのです。例えば、ある父母の息子として将来を望みながら学校に通っている学生がいれば、彼には学生としての位置と責任があるのです。もしもその位置がなければかわいそうな人なのです。そのような位置がなく、そのような関係と因縁の中で、何かの責任を持つことのできない人は寂しい人です。

 そのすべての位置が明らかで、その位置を中心として、前後、左右、上下関係においてその人が要求するままに秩序正しく協助できる環境を持つようになるとき、人は無限に発展できるのです。しかし、いくら位置が決定されていて、その環境が具備されていたとしても、関係され因縁づけられるすべての周囲の環境が、その人が行く道の前に同行できない、反対になりうる、互い違いの環境になるときには、その人が行く道の前に困難が伴うのです。

 若い学生たちは、どんな目的で学校に行くのかということを考えられない学生たちがいます。自分は社会に出る。出てどこに行くのでしょうか。自分は国の重大な責任を持って出て行く。世界があるので世界を指導するために行くと言って出て行きますが、そこからさらに進めばどこに行くのでしょうか?

 人が成功するためには、目的観がはっきりしていなければなりません。行く途中で、ジグザグに上がったり下がったりすれば時間的消耗が生じます。時に対する消耗をもたらすようになるのです。皆さんが勉強する時、小学校から中学校、高等学校、大学を経て修士、博士コースを経ていくのに、自分が何を専攻するのかということは、とても重要な問題です。

 ある一定の目的を中心にするためには、必ず一定の時間が必要です。また自分の一定の量の努力を投入しなければなりません。また一定の努力の量を投入するとしても、そこにどのくらい精誠を尽くしますか?どれだけ体と心が一つになり、投入されるかというところに差が出るのです。

 それでは、全ての精誠を尽くすことのできる力を、原動力をどこからもってきますか?それが問題です。それを他者の力により補助を受けるか、自力で自分が主体性を発揮するか、という二つの立場に立ちます。この二つの道において、どの道が効果的かというのです。それは自体的な原動力を持つことができてはじめて、相対的に、外的に、だれも協助してくれる人がいなくても正しくいけるのです。

 それで自体的な原動力を備えるにおいて、いちばん必要なものは何ですか?その動機の核心となれるものは、何でなければならないかというのです。そこには心情的問題に悩まされても自分が主体性を持てる道、永遠なる精神を捧げられる基盤がなくてはなりません。このような高次的な愛の心情が、どこでそのような爆発的な原動力を私たちに提示するのでしょうか?それは必ず相対的関係、父母と子どもの間とか、愛する人と自分との関係とか、このような相対的関係を中心として生じるのです。そういう爆発的な刺激をどこで受けるのですか?愛で受けます。愛ですが、愛もその処する位置によって違うのです。互いによい環境か、悪い環境かという。

学生時代は準備する時

 学生とは社会の核、要素を終結させるのです。ですから社会の訓練場所、それが学校です。社会のいろいろな制度を核として関係を結んでいるのです。

 学校の成績が良い人が社会に出て優れた活動をするかというと、そのまま通用はしません。勉強を頑張った以上に、社会に出て活動しなければなりません。いくら勉強ができても、座ったままでは社会で出世できません。勉強を頑張って、いくらうまく就職ができたとしても10年、20年漠然と過ごしたら、そのままではほかの人に負けるのです。ですから共に伸びていかなければなりません。ある人が成功するか、しないかということは、ある一時に決定されます。一時が重要です。学生時代に何を残すべきでしょうか。すべてのことにおいて、それを確かめなければなりません。

【二世の道p172より編集・抜粋】

Category: み言の学校