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原理講論を読もう♪㉕

十字架による救い挿絵

 前号に続いて原理講論第4章『メシヤの降臨とその再臨の目的』について学んでいこうと思います。今回学んでいくポイントは“イエス様の十字架によって人類の救いは完成したのか?”そして“イエス様は十字架にかかるために地上に来られたのか?”です。

 キリスト教においてイエス様とは完全無欠なるメシヤです。十字架にかかって亡くなりましたが、それはイエス様が失敗したからではありません。イエス様は十字架にかかるために地上に来られた、というのがキリスト教の教理です。罪も無く、神と同等な位置にいるイエス様が人類の全ての罪を背負って十字架にかかられたので、そのイエス様を信じることが全ての救いに繋がる、というのがキリスト教の信仰です。つまり“救い”はイエス様が十字架にかかることで完成したのです。

 しかし十字架によって人類の“救い”が完成したならば、何故この地上には未だに天国ができていないのでしょうか?(2000年前にイエス様は人々に「天国は近づいた」と叫んでいたのに)そしてキリスト教徒の中にイエス様のような神の心情を理解し、神と共に生きた人がどれだけいたでしょうか?また信仰の篤いキリスト教徒ならば“救い”を受けたはずなのに、どうしてその子孫たちもまた“救い”を必要とするのでしょうか?こういった点から見ても、十字架による“救い”は完全なものではなかったということができます。だからといって原理講論では十字架の“救い”を全否定しているわけではありません。これまでのキリスト教の歴史、そして聖霊による恩賜がいかに大きいものだったかということを認めています(原理講論P180)しかし結果的には、十字架による“救い”は完成していないのです。

イエス様が生まれた本来の目的

 それではキリスト教が言うようにイエス様は十字架にかかるためにこの世に生れて来たのでしょうか?もしもイエス様が十字架にかかられるためにこの地上に来られたならば、十字架にかかったことも、そして十字架にかかるまでのプロセスも神の予定であり、計画だったということができます。つまり民衆がイエス様をメシヤとして信じなかったことも、ユダヤ教の指導者がイエス様を殺そうとしたことも、イスカリオテのユダがイエス様を銀30枚で売ったことも、ペテロが土壇場でイエス様を三度否定したことも、イエス様が十字架で苦しみながら死んだことも、全てが神の予定であり元々計画されていたことだったと言えます。ところがイエス様が死んだ後、弟子たちは揃って悲しみに暮れ、ユダヤ教指導者たちに対する怒りを露わにしました。その代表的な例がキリスト教の最初の殉教者であるステパノが死ぬ直前に残した聖句です。

 「あぁ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、いまやあなたがたは、その正しい方を裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」(使徒行伝7・51-53)

 またイエス様も自らをメシヤとして信じようとしないユダヤ民族に対して彼らの頑固と不信を嘆かれ、こう語られました。もしも神の予定でユダヤ民族がイエス様を信じないのであれば、イエス様は彼らを責めることすらしなかったでしょう。

 「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)

 また十字架にかかる直前にゲッセマネの園で深刻に神に祈られました。一緒にいた3弟子に「わたしは悲しみのあまり死にそうである。ここに待っていて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われるほど深刻な祈りでした(しかしこの後に3弟子はイエスの心情を理解できず、眠気に負けて眠ってしまいます)。(イエスが)うつぶしになり、祈って言われた「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」(マタイ26・38-39)

 このように聖句を見ると、弟子たちもそしてイエス様自身も十字架での死を神の予定・計画と考えていなかったということがわかります。イエス様の生涯を見ても、多くの個所でユダヤ民族がイエス様を信じることができるよう、神様が準備された役事やイエス様の努力を見ることができます。イエス様の誕生を知らされた東方の博士や羊飼い、人々が密かにメシヤではないかと噂された洗礼ヨハネがイエス様を神の子として証したできごと、民衆に希望と慰労を与えた奇跡の数々、そして人知を超越したイエス様の福音のみ言。これらは全てユダヤ民族がイエス様をメシヤとして信じさせるためのものでした。このようにイエス様が十字架にかかったのは神様の予定・計画があったためではなく、ユダヤ民族の不信によるものだと原理講論でははっきりと結論付けています。しかし旧約聖書を見るとイエス様が必然的に十字架にかかると預言する聖句があります。また一方では天国を建設され王として君臨されることを預言する聖句もあります。次号ではイエス様に関する聖句に関して学んでいこうと思います。

Category: 誌面説教②