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預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その5:ホセア

イスラエルの背信Hosea

 預言者アモスが活躍した同じ時代、イスラエルのヤラベアム二世の世に登場したのが預言者ホセアです。神様は、ホセアに特別な方法で、今のイスラエルに対して神様が語りたいメッセージを悟らせます。しかし、それはホセアにとってはとても辛い体験でした。

 主が最初ホセアによって語られた時、主はホセアに言われた、「行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受け入れよ。」(ホセア1・2)

 常識から考えても信じられない命令を神様は下しました。義なる神様がなぜ、善良なイスラエルの民ホセアに不品行な女を妻としてめとり、その過ちによって生まれた子を受け入れよと言うのか、極めて理解しがたいことです。

 神様はこう付け加えます。「この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからである」(同1・2)と。

 ホセアは、従順に神様のことばを受け止め、その命じられるところを実行します。それによってホセア家庭のできごとは、イスラエル民族とその国が創造主の前になしている様相と重なり合ってきます。

 創造主である神様に呼び出され、摂理的な使命を果たすために選ばれたイスラエル民族は、ヤコブの勝利基準を相続して発展し、国を建て、中東の一角にその勢力版図を持ちました。しかし、慢心した王たちは、主なる神様を敬うのを止め、別のものに頼るようになります。それはイスラエルの民をエジプトの苦役から解き放ち、約束の地へと導き上った神様に対する明らかな背信行為です。神でないものを神として仰ぎ、それを崇拝し、心を寄せることは、不倫行為と同じだと言うのです。

神様のうめき

 最も信頼を寄せる者から裏切られた神様の痛みと、傷ついてもなお愛そうとする哀しさを、家庭生活の中で、身をもって体験するホセアです。神様はホセアのふたりの子に、“ロルハマ(わたしはあわれまない)”“ロアンミ(わたしの民ではない)”という名をつけさせ、神様の抱いている思いを直視させます。それで、この預言者からもれ出ることばは、神様の心に抱いた悔しさ、無念なる思いです。

 その悔しさは、時に厳しい裁きのことばとして表れることがあります。しかし、それらのみことばの出所は、憎しみや怨みからくるものではありません。

 神様はどれほど彼らを親しく愛して来たのかを思い起こさせます。イスラエルの「若かった日」、「エジプトの国からのぼって来た時」(同2・15)を思い起こし、初愛の花嫁を迎えた喜びの一日のように親しい関係を結んだはじめの日を回顧します。

 また、神様は、「わたしはエフライムに歩むことを教え、彼らをわたしの腕にだいた。」(同11・3)と言い、「わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。…かがんで彼らに食物を与えた。」(同11・4)と語ります。神様は、イスラエル民族を、幼子を見守る親のように愛したと言うのです。

 そして神様は、最後にはイスラエル民族が“あわれむ者”“わたしの民”“神の子らになること”を願ってこられました。ホセアの示す神様は、絆が断ち切られて苦悩する悲しみの神であり、親しい関係を取り戻したと願う愛なる神様でした。

慈しみ深い父のかたどり

 イスラエル民族を見つめるイエス様の眼差しは、時にアモスのように、神様の義を先立たせて民に正しい行いを要求します。善悪を分別して、善なる者に立ち帰るようにとの呼びかけです。また、時にホセアのように、神と人とが本来の親しい親子関係にあったことを思い起こさせ、その関係を回復して、喜びと慰めを得るように呼びかけます。

 徴税人、売春婦、病人や盗賊、人々から蔑まれ嫌われていた者までも受け入れ、許していかれたイエス様でした。それによって、神様を忘れ、神様から離れた人類は皆、親を失った孤児のようなものであることを示しました。

 人類を憐れまれる神様が人類の真の父母であることを教えるために来られたイエス様は、目に見えない神様の愛と心情を見える姿で示そうとしていたのです。しかし、残念ながら、それを余すところなく現す前に、人々から排斥され殺されてしまいました。それで、イエス様の公生涯には、ただ預言者のごときことばと行いだけが残ったのです。

 最期の晩餐の夜、「主よ、わたしたちに父を示してください」(ヨハネ14・8)と迫る弟子のピリポに、悲しい思いを抱えながらこう答えるしかありませんでした。「わたしを見た者は、父を見たのである」(同14・9)。それが、愛する弟子が受け取ったイエス様の遺言となりました。

Category: 誌面説教