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神様

神様は無形の存在1_6

 神様は知恵深い方です。神様は自ら“見えない主人になろう”そういう考えができるのです。便利な道を選ぶとなると、人間たちの知らないうちに、そっと神様一人で思いのままにできるように、人間がいくら追いかけても捕まえることができず、見ようとしても見えない存在になるのが一番便利な方法でしょう。それでもって主人として君臨すればよいのです。分かりましたか?そうやって君臨するのが理想的なのであって、210億光年にもなる宇宙に「我が懐に抱かれよ、お前は我がうちにあれ」と言うそんな図体をした神様だったら、神様としてやっていられるでしょうか。その神様に心があるとすれば、心から体までの距離はどのくらいになるでしょうか。その大きな体と心が互いに訪ねて行くには、どれだけ時間がかかるでしょうか。

 そのように考えると、知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央に立って思いのままに動き回れる、無形の存在としてこれを支配するのが一番便利だと考えたのです。では、誰か文句を言う人がいますか?神様は無形であるだけに、存在世界を自由に通り抜けて行っても、少しの支障も感じる人はいません。皆さんにも体がありますが、神様が来て自由に通り抜けてもわからないのです。神様が、ウトウト居眠りしている皆さんの体を踏んで行っても気づかずにいるのです。だからとても都合がいいのです。一番都合がいいでしょう?したがって、神様はよく考えた末に、目に見えない存在でいるのが一番便利だということで見えない神様になった、という論理は妥当な論理なのです。

 皆さん、空気が体を出入りしているのを知っていますか?空気が出入りするのも感じないのに、神様が出入りするのを感じられるかというのです。こうして神様は、無形の神様でいることが最も便利な方法だと判断し、この宇宙を支配できる、宇宙を風呂敷に包んで余りあるほどの神様でなければいけないと考えたのです。

神様は体恤して分かる

 では、“神様はいる”、漠然と“神様はいる”と言うと、私たちにはあまり関係がないような気がします。神様がいるならいるで、私たちと何の関係があるのかと言うのです。関係、どのような関係を持つかということが重要なのです。“神様はいる、神様はいる”と言うのは、言葉だけではないのです。原理を通して主体と対象の関係を中心として見る時に、私たちは、神様が不可避的にいなくてはならない存在だという立場ではなく、“神様は私が考える以前から存在していたのだ。私のすべての感覚、私の一切のものを主管する神様だったのだ”という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。

 “認識して知る”のが原則ではないですか?“知って認識する”ではなく、“認識して知る”ようになっています。私たちは、寒いなら寒いということを知ってから感じるのではなく、寒いことを感じてから知るのですね。それと同じように、皆さんは、神様がいるなら神様がいるということを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。すなわち、体恤的立場をどのように確立するかという問題、これが問題なのです。

 今日、私たちは“神様の愛を受けたか?”あるいは“今、神様の愛を受けているか?”と聞かれたら、何と答えるでしょうか?世界中の神学者の中には、神様がいるのか、いないのか分からない人もいます。神様は頭で知るのではなく、心情で体恤しなくてはなりません。感じなくてはならないのです。皆さん、これが問題です。皆さんは寝ている時も「お父様」、独り言でも「お父様」と言えなければならないのです。世界中の人々が自分の相手を慕う以上の慕わしさが込み上げるようでなければなりません。そうして食べることも寝ることも忘れて、その生活の内面に天のお父様への慕わしさを持って、「お父様」と呼べば、目の前にお父様の姿がなくてもお父様の手が握られるようになるのです。そういうことがあるのです。夢のようなことが起こるのです。「お父様」と呼べば、お父様の懐に抱かれるようになるのです。このような中で体恤的感情をいかに体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いものであることを皆さんは知らなければなりません。

 そのような体恤の感度、感じられる度数、その量がその人の信仰の基準になりうるのです。そのような愛の心情を持ったならば、どこへ行ったとしても「私がこれをしなくてはならない」と言う時には、「天よ、共にいてください」と言う前に、すでに神様は共にいてくださっているのです。そのようなことを皆さんが感じる時には、「神様、感謝いたします」と言うようになるのです。

【二世の道p22より抜粋】

Category: み言の学校