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Archive for 9月, 2012

夢と職業

 例えば、小学校5年生になる少年に将来の夢を尋ねると「プロ野球選手になる!」と、元気に答えます。ところが少年が成長し青年になる頃には、「少年の頃の夢は諦めた…」となり、現実を考えながら「良い大学に入り、収入の安定した職に就きます」と、夢が修正されるのです。大人たちは、幼少の頃に大きな夢を持つことを推奨し、大きくなってもまだ現実離れした(と思える)夢を抱くことに警鐘を鳴らします。さて、少年の頃に抱いた夢は、いつ頃まで描き続けることが良いのでしょうか?いつ頃になれば、諦めても良いのでしょうか?現実に妥協するタイミングは何歳頃なのでしょうか?真のお父様は、何歳頃に夢を諦め、現実に妥協されたのでしょうか?

 そもそも、小学校5年生の少年の抱いた夢は、“プロ野球選手”ではありませんでした。それは、少年が抱いた夢を成すための“手段”の一つであり、少年の夢を成すための“職業”なのです。では、少年が抱いた夢とは何でしょうか?それは、少年がプロ野球選手という職業を選びたいと思った動機や機会が参考になります。少年は、イチロー選手の活躍を通して感動し、希望を得ました。WBCで日本が世界一を獲った瞬間を目撃し、大きな衝撃とともに感動し涙を流します。日本中が感動して揺れ動く瞬間に出会い、“僕も人に感動を与えたい、より多くの人に希望を与えたい”と感じるのです。これが、少年の夢です。それはまた、少年が人生の中で設定した、生きる“目的”でもあります。私たちは誰しも神様の子女であり、“他の為に生きたい、感動させたい、より多くの人を喜ばせたい”という衝動があります。そこから、幼き頃に体験したことをもとに、夢を抱き、夢を成すための職業を思い描きます。しかし、多くの場合はこの夢(目的)と職業(手段)を混同し、少年は現実の厳しさを受け入れ、夢と職業を一緒に捨ててしまうのです。

 まだ“夢がない”という中高生がたくさんいます。その言葉には二つの意味があると思います。“将来就きたい職業がない”ということと、“誰か(何か)のために生きたいと思えない”ことです。変化に富み、多様化した現代ですから、どのような職業に就くかはじっくり考える時間が必要です。特定の分野であれば早くから備えることは重要ですが、可能性を狭めないための基礎の準備を怠らなければ、大学からでも遅くないと思います。しかし、折角少年の頃に抱くことを許された夢、“他の為に生きたい”、“より多くの人の役に立ちたい”という衝動を育てないまま、青年になって欲しくはありません。夢を成すための“手段”(職業)が不明確でも、夢”や“為に生きたい衝動”は大きく持ってもらいたいです。最後に、有名なクラーク博士の言葉を引用します。

「少年よ大志を抱け。ただし金を求める大志であってはならない。己の利己心のみを望む大志であってはならない。名声という浮わついた束の間のものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全てのものを求める大志を抱きたまえ」

滋賀教区成和学生会

2012_0429_152328-P1050313② こんちくわ~!(滋賀の方言です)全国の兄弟姉妹の皆さんお元気様です。

 滋賀教区はどこにあるか知っていますか?日本一の湖、琵琶湖があるところです。真ん中に湖があるのでなかなか教区全体で集合することができませんが、“やったろー滋賀”という合言葉で完全投入し、心情一体化を目指しています。

 滋賀では連結に力を入れています。小学生の修練会、イベントに中高生がスタッフをし、青年と合同で修練会やイベントをおこなっています。また、青年につながりにくいメンバーのために、成和学生OB会ができました。OBの皆さんが高校生を対象としたイベントを企画して、青年部に参加しやすい環境を作って下さっています。

 2010年から初級原理修練会が始まりました。3日間の集中した原理講義、1時間のチャート式原理講論 12回訓読、最後に認定試験を受け、合格すれば初級認定講師の資格がもらえます。不合格のメンバーは再チャレンジをします。原理訓読の習慣化のため、修練会だけで終わらず、礼拝前に全体訓読と集中訓読をおこなっています。また家庭でも継続して訓読に取り組んでいます。そして、この夏、教区で初めてお父様の自叙伝を配布する実践に取り組みました。苦しい歩みでしたが、神様、真のご父母様の心情の一端に触れることができ、もっと実践を頑張りたいと思いました。

 奉仕活動では、琵琶湖の清掃や外来魚駆除、公園のトイレ掃除に取り組んでいます。琵琶湖清掃は家族全員が参加するファミリーボランティアで注目を集めており、毎年24時間TVで紹介されています。天父報恩鼓は、老人ホームの慰問、イベントなどで活躍しています。 

 最後に、今年の成和学生大会では、念願の優勝を飾ることができました。どの教区が優勝してもおかしくない中で運よく優勝したのは、日頃から兄弟姉妹の仲が良いからだと思います。今後も目標をしっかりと定めて頑張っていこうと思います。“天の伝統を相続し真の父母様の似姿となろう”私たちも天の誇れる神の子として歩んでいこうと思います。サランヘヨ~♡

原理本体論30日特別教育の摂理的意義

先日行われた“基元節と祖国光復のための新氏族的メシヤ3600名原理本体論30日特別教育”の摂理的意義について説明したいと思います。

原理本体論の徹底した教育

 真の父母様は「“原理原本”を起源として、“原理解説”が蘇生期的み言、“原理講論”が長成期的み言、“原理本体論”が完成期的み言である」と語られました。

 『原理本体論』の正式名称“神様摂理史の責任分担解放圏完成宣布教育”の中の“責任分担”とは、「絶対“性”の完成」を意味します。すなわち、これは生殖器を中心とする絶対“性”解放完成教育なのです。絶対“性”教育、これが“原理本体論”の核心的内容です。

新氏族的メシヤとしての出発

 真の父母様が「どの国の国民、どの国の家庭的メシヤだとか、氏族的メシヤだとか、国家的メシヤだとか言う時代は、もうすべて過ぎ去りました」と語られているように、今までの全てを清算して、今回新たな“氏族的メシヤ”となって、真の父母様の代身的な役事をするために新しく出発する目的をもって、教育がおこなわれることになりました。

 その内容としては、勝利された真の父母様の生涯を通じた伝統を相続し、真の父母様に似て、新氏族的メシヤとして勝利するための教育であり、「今や、生涯最後の、真の父母様中心の教育である」と語られました。

 真の父母様が「今回の教育を受けて自分の氏族、親族を教育させなければなりません。」と語っておられるように、原理本体論を中心とした訓読教材、教本を活用して、私たちの血統圏であるアベル氏族と、生活圏の中で因縁のあるカイン的氏族を伝道し教育して、祝福に至らしめ、天一国入籍まで導くのが新氏族的メシヤの使命です。

まとめ

 私たち全祝福家庭が“新氏族的メシヤ”の誇りと自覚を持って、内的には「絶対“性”」の伝統を確立し、具体的には“氏族祝福完了”を果たして、“祖国光復”の盤石なる基盤を築いていかなければなりません。

神様と共に歩んだ父祖たち その1:アブラハム①

bassano-departure-abraham-NG2148-fm偉大なる父祖アブラハム

 復帰摂理歴史において、神様はノアから10代、400年の蕩減期間を経て、ノアの身代わりとして、アブラハムを立てられました。ユダヤ人たちは父祖アブラハムを称えて歌います。

 アブラハムは諸国の民の偉大な父であり、その名声には何のかげりもない。彼はいと高き方の律法を守り、神は彼と契約を交わされた。彼は契約のしるしを体に受け、試みに遭ったときも、忠実であり続けた。それゆえ、神はアブラハムに次のように約束された。諸国の民は彼の子孫によって祝福を受ける。彼の末は地の砂の数ほどに多くなり、その子孫は空の星のように高く上げられる。海から海に至り、川から地の果てに及ぶ地を、彼らは代々受け継ぐようになる。(シラ44・19~21)

 ユダヤ人はアブラハムの物語を、ユダヤ人にとっては直接の先祖の物語として心に刻んできました。その伝統を相続したキリスト教徒は、アブラハムを“信仰の父祖”と尊敬してきました。その後に登場するイスラームの伝統においても、彼を父として慕ってきたのです。

 特に、ユダヤ人たちは、父祖の物語を、私の身近なお父さんやお祖父さんのできごとを記した物語として読み深めてきました。私のお祖父さんはこのように神様から呼ばれ、他の誰も神様を知らない世界で、神様と歩まれた方だ。そして、お祖父さんに起こったことは自分にも起こることだととらえてきたのです。だから、私もアブラハムのように生きようとなるのです。

 つまり、選民にとって父祖たちの人生は、自らの行くべき人生でもあるのです。

アブラハムの一族

 アブラハムはカルディアのウルで生まれました。親からもらった名前はアブラム。神様と契約を交わした後に“アブラハム(諸国民の父)”と呼ばれます。彼の父親はテラ、偶像商だったといいます。アブラハムの兄弟はナホルとハラン。3人はウルで成長し結婚しました。弟のハランにはロトと2人の娘が生まれましが、父に先立って早く亡くなりました。

 ハランを失った悲しみがあまりにも深かったのでしょうか。ある日、父のテラは、故郷を離れる決意しました。ナホルとハランの娘でナホルの妻となったミルカは、カルディアのウルに残り、テラは、長男のアブラハムとその妻サラ、ハランの息子ロトを連れて、カナンを目指して出発したのです。しかし、ユーフラテス川を遡り、ハランの地に着いた時、父親は先に進むことをあきらめ、その地に定着しました。

アブラハムの召命

 テラの一家にとってハランの地がいつしか生まれ故郷のように感じられ始めたとき、突然、神様がアブラハムに声をかけました。

 あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される(創世記12・1-3)

 驚くべき呼びかけに、アブラハムはためらうことなく従います。親を残して、妻と甥のロトを連れて出発します。そのときアブラハムは75歳。もう若くはなく、責任をもって一族を率いていく立場に立っていました。その男が、年老いた父親を残して、目的地もわからないまま、神様の約束だけを信じて歩み始めるのですから、簡単なことではありません。

 しかし、アブラハムには神様のその一言で十分でした。彼は困難を恐れず、み言に従って出発し、その後の人生のすべてをかけたのです。

あなたに行け!

 神様がこの時アブラハムにかけた一言、「行きなさい」には深い意味がありました。ヘブライ語では「レフ・レハー(あなたに行け)」と書かれています。ユダヤ人たちは、そのみ言の意味を探求してきました。

 ある人は、神様が背中を後押しするように「あなたが行け」と言われたととらえ、ある人は、「今は辛い選択でも、いずれあなたのためになる」という、未来を見通す神様の配慮を表していると言います。ある人は、「過去と決別して、新たな人生を歩みだすことを、あなた自身が決断せよ」との呼びかけだと言います。また、ある人は、「まだ隠れている自分の能力を発見し、本来のあなた自身になるための人生を歩みだせ」と迫る神様だと理解しました。

 どれか一つが正解というわけではなく、すべての意味を含みながら、神様がアブラハムに語ったのが「レフ・レハー」。その呼びかけに素直に応えて出発したゆえに、彼は“信仰の父”と呼ばれるのです。

原理講論を読もう♪㉚

20120824_144541②楽園と天国の違い

 人は死後の世界を、天国や地獄と言った言葉で表現します。宗教を信じる大きな目的の一つも“天国に入る”ことだと言えます。この天国に並び称される死後の世界に“楽園”があります。イエス様が十字架にかけられた時、全ての人がイエス様を愚弄し嘲笑する中、共に十字架にかかりながらもイエスを救世主として証した強盗がいました。イエス様はこの強盗に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイス(楽園)にいるであろう」(ルカ23・43)と語りかけられました。イエス様と一緒にいる場所のため“天国=楽園”と考えられやすいのですが、原理講論ではこの二つをはっきりと区別しています。天国とは本来、地上で霊人体を完成させた人が死後に生霊体となって定住する場所をいいます。しかしアダムとエバが堕落して以来、生霊体を完成した人は誰一人いませんでした。そのため天国という場所はあっても、そこに入れた人は誰一人いなかったのです。“楽園”とは天国の下の段階の場所で、生命体級 の霊人体を完成した霊人が定住する場所です。イエス様を信じて生命体級を完成したキリスト教徒は死後に“楽園”に行くことになります。それではイエス様はメシヤであられたにもかかわらず、なぜ天国には入れなかったのでしょうか。

 原理講論には載っていませんが、真のお父様はみ言の中で、イエス様が天国には入れなかった理由を「結婚できなかったから」と語っておられます。天国は一人で入るところではなく、夫婦で入る場所のため、救世主であるイエス様であっても、結婚するまでは“楽園”で時を待たなければいけなかったのです。真のお父様は楽園を“天国に入る準備をするための待合室”と表現されています。(天聖経・地上生活と霊界/イエス様と楽園より)

 “楽園”に入る基準は霊人体が生命体として完成することですが、この基準はアダムとエバが堕落した当時の基準と同じ基準です。終末 は堕落前のアダムとエバが神様と一問一答する世界を復帰する時代なので、多くの人が霊通するようになります。そして、その時代に堕落前のアダムとエバの基準、生命体を復帰した人には、かつてアダムとエバが祝福されたように「あなたは主である」という啓示を受けることがあります。こうした啓示を受けると、自らを“再臨主”と勘違いしやすいのですが、これは堕落前のアダムとエバの立場を復帰したという意味から与えられた祝福にすぎません。そのためこういった啓示を受けた人ほど摂理の中心である“本当の再臨主”がどこにおられるのか、そして自分の責任分担が何であるかを見極めることが大事になってきます。

霊人の復活摂理

 これまで説明した通り霊人体は肉身を基盤にしてのみ成長することができます。裏を返せば、肉体が死んでしまった後、霊人体が霊界で独自に成長しようとしても、それは不可能なのです。そのため地上の肉身生活で霊人体を完成できなかった霊人たちは地上の人間に再臨して協助することにより、自分が完成できなかった使命部分を果たし、霊人体を成長させなければいけません。霊人が地上に再臨する目的は、自らの霊人体を成長させるためなのです。

 霊人が地上に再臨する時は、同じ基準の人間に再臨するようになります。律法を順守して霊形体をもつ旧約時代の霊人は、同じように霊形体の基準を持つ地上の人間に再臨し、協助します。協助の結果、地上の人間がみ旨に貢献し、地上の人間の霊人体が霊形体から生命体に成長すれば、協助した霊人も生命体に成長することができるのです。これを長成再臨復活といいます。同じようにイエス様を信じて生命体を持つ新約時代の霊人は、生命体の基準を持つ地上の人間に再臨し、協助します。協助の結果、地上の人間がみ旨に貢献し、地上の人間の霊人体が生命体から生霊体に成長すれば、協助した霊人も生霊体に成長することができるのです。これを完成再臨復活といいます。

 キリスト教以外の宗教を信じていた霊人は、同じ宗教を信じる地上の人間に再臨して協助することになります。また、特定の宗教は持たず良心的に生きた霊人は、同じように宗教を持たない良心的な地上の人間に再臨し協助することになります。最後に、宗教も持たず、良心的な生活もしなかった悪霊人の復活の仕方は二つあります。一つは地上の悪人に直接悪いことをさせて、それを蕩減復帰させる再臨の方法です。もう一つは第三者に再臨して当事者(地上の悪人)に悪いことを行い、その当事者の蕩減条件を立てさせていく方法です。こうした再臨を通して霊人は地上人を協助し、自らの霊人体を成長させているのです。

 若干複雑な説明になりましたが、要点は“霊界にいる霊人は、地上の人間に再臨しないと成長できない。そして霊人は自分と似た者に再臨する”ということです。私たちが毎日立てている精誠や条件、生活の中での善行や努力は、全て私たちの霊人体の成長の糧となります。しかし、それは私たちだけの力で成されるのではなく、私たちの背後に再臨している霊人たちの協助も含めての結果なのです。私たちを支えてくれる善霊人に感謝し、私たちの霊人体を成長させる善霊人も成長できるように頑張っていきましょう。

自由

12真の愛と自由

 アダムとエバには選択の自由があり、愛を選択することができましたが、自由なしには愛することはできません。ロボットになるだけであり、神様を愛する選択もできないはずです。自由は“原理”においても非常に重要です。自由がなければ、人々は神様の対象としての相対となることもできず、ロボットになるしかないのです。もちろん、自由があると悪を行う選択をする可能性があることも事実です。しかし自由があるからこそ、真の愛を選ぶこともできるのです。自由がなければ愛を選ぶことができません。エデンの園において、ルーシェルはアダムとエバの自由を奪い取るため、彼らに甘い言葉をかけました。
 これまで誰もこの秘密を知りませんでしたが、実は統一原理の中に含まれていました。このことに私たちは統一教徒として嬉しく感じざるをえません。つまり私たちは自由を防護できる秘訣を、正に自分の手に握っているのです。

自由の優位性

 神様は人を信じ、アダムとエバを信じて彼らに自由を与えました。神様は彼らに優しい言葉で善悪を知る木の果をとって食べないように命じた一方、自由を与えました。神様は「おや、アダムとエバがどんどん悪くなっていくので、警察と軍隊を設け、善悪の木の果の周りに壁を築かなければならない」とは言いませんでした。神様は彼らに自由を与えたのです。このことからすると、人々を信頼する勢力は神様の側に立ちます。

 世界のどの人も自らの心において自由を追求しますが、しかし自由は無料ではありません。重い負担が伴うのです。自由社会の人々は、その“責任”ということを理解しています。政府が彼らの面倒を見てくれないことを知っているのです。だからこそ私たちは、自らの行動に責任を持ち、成熟した良好な関係を築き、そして自分の子供たちをよく育てなければならないのです。

 どの宗教も全て、どのように平和が築かれるかについての説明を持っています。瞑想の伝統を持つ宗教は、平和はその瞑想という方法を通して到来すると言い、キリスト教徒たちは聖書の教えを中心に平和について語り、イスラム教徒は聖典コーランへの服従を通した平和を語ります。真のお父様は『原理原本』において、自らがどのように理想平和世界を実現しようとされているかを明確に説明されています。

 『原理原本』に記された真のお父様の教えは非常に明瞭です。平和が到来する前には、自由が存在しなければなりません。家庭盟誓の四番目で私たちは“自由と平和と統一と幸福の世界を完成する”ことを誓っていますが、その中でも自由が最初に来ています。自由がなければ、力に頼るしかなくなり、力が強くて横暴な者が頂上に登ることになります。そういう人々は自分が勝ち取った権力を決してほかに明け渡そうとはせず、自分が支配する人々に自由を与えようとはしないでしょう。しかし自由がなければ幸福はありえません。自由があってこそ、初めて平和に至る道を見出すことができるのです。

自由理想世界

 真のお父様が宗教人として歩んでこられたのには、重要な理由があります。宗教が他と違っているのは、何世代にもわたって不変の教えがあることです。宗教は簡単な方法を通して、様々な概念を教えることができます。そして、自由を守護することが神様のみ旨であることを人々が学べば、彼らはそれを最優先するようになるのです。一世代が過ぎ去って新たな世代が立ち上がると、自由のための新たな闘士が登場するようになり、天一国の新たな主人たちが、自由を守護する世界的市民として登場するようになるでしょう。

 “自由理想世界”という言葉は事実、真のお父様ご自身から出てきた言葉であり、真のお父様の予言であり、信念なのです。『原理原本』は私たちに1951年当時の再臨主の心情と知識と意識を教えてくれていると同時に、創造原理の観点から自由の重要性を説明しているのです。

 私たちは“自由社会”と自由守護のために闘う人々について理解してこそ、真のお父様が真に自由理想世界の創設者であられることを明確に理解するようになるでしょう。

【TWJ天暦6月号より抜粋・編集】

天宙一貴い存在

09_2012_07_16_D0211②人間が貴い理由

 万物世界のどこを見ても、必ず起源があります。起源がなくてはならないのです。では、その起源において人間が中心であったかという問題、そして私たちが見ている鉱物世界と植物世界のうちどちらが先かという問題も重要な問題です。“萬物之衆 唯人最貴”と言われますが、人間が最も貴いとは誰が言ったのでしょうか。万物のうちでただ人間だけが貴いという決定を誰がしたのでしょうか。それなら植物界を見るとき、個々の植物は貴くないということでしょうか。もちろん貴いですが、万物の中で最高の価値の内容を持っているのが人間なのです。では、その貴いというのは一人の人生について言うのでしょうか?それとも、私たちは先祖から血族を通して続いてきたその一人ですが、私たちの先祖たちもみな含まれるのでしょうか。また、これから生まれてくる子孫たちも含まれるのでしょうか。それを誰が決めたのでしょうか。誰が決めたのかという問題を考えるとき、その決めたこと自体を本当に信用できるのでしょうか。これが問題です。

 それでは、“人間は貴い”“あの人は貴い人だ”と言う時、それを誰が決めるのかというのです。この問題について考えるとき、私たち自身がそのように決めるのよりも、動機となるに足る、根源となるに足る中心者、ある主人がいて、その主人が決めたのなら認めることができます。しかし、自分が決めた、私たちが決めたと考えるなら、私たちというもの自体が今日、自分の生活を中心に行くべき方向も知らない者ですし、今世の中に生きる人もそうではないですか?ただ動物のように生まれて生きて死ぬのが人生のすべてだ、このような立場の人間として自分自身が万物の中で一番貴い存在だと決めたとしたら、それ自体信じるに足りません。自分を信じられない、こんな立場に立っている自分を中心としてその自分が貴い立場にあるという決定をしたところで、それが全宇宙から認められた事実として普遍化できないということです。

 それでは、誰が決めなければならないでしょうか。すべてを存在せしめる、ある原因的な存在が…。鉱物世界を見ると、無限な元素が互いに結ばれています。その鉱物世界の神秘的なすべての構造と形態というものは、でたらめにできているのではありません。必ずある方向性を中心としてその目的と価値を持っているのです。植物も同じですし、人間も同じです。すべてを存在せしめる一人の主人がいて、その主人から「お前は私が作った万物の中で一番貴い」と言われれば、それは全体が認めることができます。そうなるには、自分自身が貴いと認めることのできる根本的な存在と関係がなくてはなりません。

貴い存在になるためには

 では、“貴い”というとき、現在の立場を持って貴いというのか、自分が生まれてきて生きていく中で人生の目的を完成させる内容全体を中心として貴いというのでしょうか。いくら考えても、自分が生きている現在の立場、生活圏自体を中心として貴いとみることはできないのです。“人間には、責任と目的完成の内容を中心とする貴い価値が与えられている”ということを考えないわけにはいきません。

 そのような立場から見るとき、自分は何でしょうか。自分は何なのでしょうか。人間が貴いことを願う自分は何なのでしょうか。そう願うことが一つの根源となって、ある過程を経て目的地まで行った後でなければ、貴いという価値の決定は不可能なのです。その目的を達成する過程で「自分は貴い」というのですが、実際には、まだその位置に到達できずにいることを考えなくてはならないのです。だから「人間は完成しなければならない」というでしょう?

 人間は何が貴いのですか?立って歩くことですか?熊の子でも立って歩くことはできます。人間の勝っているものは何ですか?人間が勝っているのは、神様と愛し合う資格があることです。

 人間が最も絶対的に知らなくてはならないのは何かというと、根源です。神様をはっきりと知り、自分の親をはっきりと知り、自分の夫をはっきりと知り、自分の子をはっきりと知り、自分の兄弟をはっきりと知ればよいのです。その次に、兄弟がこれから生きていける国をはっきりと知ったら全て終わるのです。それが一番です。

 どこかの大学を出て大学院に進んで博士になったと言いますが、博士など何になりますか?お母さんや妻・兄弟と帰ることができますか?親と帰ることができますか?最も貴いものを持っていながら、その貴さに気付かずにいる人のことを何と言いますか?愚か者、人でなしと言います。

【二世の道p61より編集・抜粋】

世界人となる二世へ

黒崎FE

 全国の兄弟姉妹の皆さん、お元気様です!皆さんはこの夏をどのように過ごされたでしょうか?全国各地で修練会が数多く行われ、Jr.STFの修練会だけでも国内外を含め12カ所でおこなわれました。私はその中の一つの台湾国際修練会にスタッフとして参加させていただき、日本と海外の二世の弟妹たちと共に熱い夏を歩ませていただきました。

信仰の原点

 私も皆さんと同じ中高生だった頃は、修練会や教会のイベントによく参加していましたが、原理や神様のことは全く分からず、信仰の“し”の字も分からないような幼い自分でした。そんな私が転換するキッカケになったのが、“Jr.STF”のプログラムでした。その当時、高校3年生だった私は、最初で最後のGreen修練会に参加し、初めて神様との劇的な出会いをしました。それから少しずつではありますが内的な成長を重ね、高校卒業後、STFチャレンジャープログラムに参加することを決意し、多くの訓練を通過し、神様、ご父母様との心情的な出会いを多く持ちました。

 そして、神様、ご父母様との出会い、共に流した涙こそ、今の私の信仰の支柱、原点となっています。

台湾国際修練会

 台湾国際修練会では、日本、台湾、中国、パラオから集まった80名の兄弟姉妹たちと共に歩ませていただき、本当に多くの内容を感じました。

 特に印象深かったのは、日本から来たJr.STFのメンバーが台湾の弟妹たちに、言葉の壁を感じながらも本当に愛し、投入する姿でした。そして海外の二世たちと日本の二世たちが言語・文化を超えて一体化する瞬間でした。

 言葉の通じない幼い弟妹たちを前に、どうやって投入すれば良いのか?とゴチャゴチャ考える前に抱きしめてみる!といったように最初は愛することに狂った集団でした。実際に初めてのことだらけで、手探りで対象を愛するチャレンジをしていきました。その中で自分自身の愛する限界や、内外共の試練に遭いながら、それでも弟妹たちに投入し続けていくJr.STFのメンバーたち。夜遅くまで、どうやったら弟妹たちを勝利させてあげることができるのかを話し合う姿や真剣にみ言を求め、ディスカッションをする姿、神様と共に涙を流し決意する姿を見ることができました。

 10代という若い時期にこのような試練を神様から与えられ、それに果敢に挑戦する姿は本当に私の胸を打ちました。そしてこのような経験は彼らの永遠の信仰の財産になるであろうと感じました。

 最終日の祈祷会では、修練生全員で踊り、歌い、抱き合い、涙しました。神様を中心にOne Family Under God を全員が肌で感じたのです。国際修練会の希望と勝利を感じ、本当に世界を股にかけるであろう二世たちの無限なる可能性を感じた修練会でした。

二世の可能性

 今回、私は台湾の歴史に刻まれるであろう歴史的な修練会に参加させていただき、確かにこの目で二世の無限大の可能性を見て実感しました。決して日本にいる時には経験することのできない、尊い経験でした。お父様が自叙伝で“本当のグローバルリーダーは世界を懐に抱く人でなければなりません。”と言われている内容が今回初めて理解できました。日本から出てみて初めて分かったのです。日本のみに留まっていては数多くあるお父様のみ言を本当に理解することは難しく、様々な経験をしてみなければならないのだと感じました。

 皆さん!この中高生期をどのように歩むのか、そして私たちはどのようにみ旨に貢献していくのか、それを本当に真剣に考えていますか。もし、まだならば真剣に求め、考えてみてください。そして大きな夢を描き、計画し、果敢に挑戦してみてください。

聞くことや考えるだけなら家に居てもできるでしょう。しかし私たちが本当に知ろうと思ったのなら、世界に出てそこで真剣に歩んでみる必要があると思います。その経験は必ず生涯の信仰の宝となるでしょう。

 この中高生期に様々な挑戦をし、一人ひとりが“大きな夢・志”を立て、志によって歩むこと、そして神様と出会い信仰の原点を掴むことが重要だと思います。

 私たちの可能性は無限大です。自分が思っている以上に自分自身の可能性、潜在しているものは大きいのです。

 神様も間違いなくその可能性を見ておられるでしょうし、私も私自身を絶対的に信じてくださっている神様を信じてきたからこそ、今の自分があると思っています。

 そして、み旨を共に歩む兄弟姉妹たちがいることも大きな支えです。皆さん、ぜひ多くの兄弟姉妹たちとの関係を大切にしてください。切磋琢磨し合いながら、良き兄弟姉妹の文化を築きながら、高め合ってください。

 自分もまだまだ訓練途中の身ですが、また皆さんと共に歩めることを楽しみにしてます!我住!!

鮮鶴合唱団が被災地で慰問コンサート

9472d554f8cd72b442ea62d9086b1547 7月28日(土)と29日(日)の2日間、千葉市近郊の教会に所属する二世の子供たちによる“千葉鮮鶴合唱団”が、宮城県石巻市内の3ヵ所の会場で慰問コンサートをおこないました。石巻市内の会場で二度の公演を行い、高齢者の方々と一緒に童謡を歌ったり、入居者の方々に手作りの折り鶴をプレゼントしました。

 子供たちとの交流に涙を流される方も多くおられ、「心の癒しを頂きました。これから私たちも頑張っていきます」との感謝の言葉や、「また来てね」など別れを惜しむ声も多く聞かれました。