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Archive for 7月, 2012

中高生期における共同体信仰と修練会

 いよいよ夏の修練会シーズンを迎えます。本部主催だけでも、国内外において12の修練会が企画され、地区や教区の修練会も合わせると、中高生だけで30~40を超えることが予想されます。15,000名いる全国の成和学生の半数以上が参加し、神様との心情因縁と、兄弟姉妹との関係を固く結ぶ機会となることでしょう。そこで、修練会に送る保護者の心構えとして、ご説明させて頂きます。

 1.共同体信仰の重要性

 以前、実際にあったエピソードです。ある成和学生の親から担当者に電話があり、「今度の2泊3日間の修練会の中で、原理講義の時間はどのくらいあるのでしょうか?」と尋ねられ、「体験教育を重視しているため、今回の修練会は2時間だけです」と答えました。すると親は、「分かりました、では子女を送らないことにします」との返答だったそうです。ご両親からすると、ご自身が原理との出会いに感動し復帰された経験がありますから、子女に対する信仰の成長においても、原理講義の時間に比例すると誤解されている方がいます。

 勿論、原理の理解はとても大切です。原理教育は充実すべきです。しかし、深い原理の理解には、真理を知能で理解するためのある程度の知的成熟と、神霊を心霊で感知するための豊富な経験が必要です。中高生期は、その両面において成長の途上にありますので、原理を深く理解するための心情的体験を積むことがとても重要です。また、この頃の信仰は“共同体信仰”とも言われ、先輩や友人から受ける影響がとても大きく、本然の兄弟姉妹の文化に触れる中で、大きく信仰を育みます。その点で、修練会は特別な時間と空間の中で、神様を中心とした兄弟姉妹の関係を築く絶好の機会です。

 2.修練会後の小さな芽を育てましょう!

 そして、修練会に参加させても日常に戻るとすぐに、以前と変わらない生活を送る子女の姿に対する不満の声を耳にします。確かに、この時期の子どもたちは、所謂、“熱しやすく冷めやすい”存在ですので、修練会での復活と生活習慣の改善は、三日坊主に終わる子たちも多いです。ここで、私も含めて多くの場合は、自分のことは棚に上げて、子女に対して規律正しい生活を求めてしまうことがありますが、やはり子どもたちに対しても、小さな成長の足跡を見つけてあげ、そのことを“良し”としてあげる姿勢が必要かも知れません。

 修練会はちょうど、映画トトロに出てくる、ある場面と重なるところがあります。主人公のメイが夢を見ます。昼に植えた種を、登場したトトロと一緒に瞬時に大きくさせ、その育った大木の周りを飛び回ります。メイにとっては夢のような楽しい時間です。ところがそれは夢だったのです。朝になって夢から覚めたメイは、庭に飛び出します。大木は跡形もなく消えていたのです。しかし、そこには小さな芽が出ていました。中高生にとっての修練会は、ある意味で夢のような体験です。だからこそ、日常に戻った時に夢から覚めた寂しさを感じるのです。ここで、大木が消えたこと以上に、目の前に現れた小さな(信仰の)芽を、これから大切に育てることに集中させます。時間をかけてじっくりと、将来の大木を育てていきます。そのような感覚で、子女を見守り育んでいきましょう!

静岡教区成和学生会

DSC00938② 全国の兄弟姉妹のみなさん、こんにちは!

 静岡教区は7教会で構成されており、中学生と高校生を合わせて約300人が所属しています。静岡は東西に長く広がっているので集まりにくいのですがメンバーはとても仲が良く、元気一杯に活動をしています。

 静岡教区成和学生会の活動としては、毎月第二日曜日に“One day”と呼ばれる教区集会をもち、教会の枠を越えて共に活動をしています。“One day”では午前中のみ言の後、みんなでお昼を食べ、午後にはゲームやレクリエーションをし、兄弟姉妹同士の絆を深めています。

 そのような交流をもつうちに文化活動が熱心になってきて中和文化祭に向けたバンドを結成しました。現在“TLR”、“Dear”という2つのバンドが活動をしていますが、バンドを通して教会に来るようになり、その後学生会長を務めた人もいます。

 また兄弟姉妹を笑顔にしたい思いから漫才コンビも結成しました。“ちょげちょげ”、“ずーぬま”という2つの漫才コンビがありますが中和文化祭やクリスマス会などで笑いを届けています。

 このように明るく元気で活発な静岡ですが、それは見本となるお兄さんお姉さんがたくさんいて一生懸命、弟 妹の面倒を見てくれたからです。親が、忙しい時に教会のお兄さん、お姉さんが代わりに弟、妹の面倒を見てきました。ですからお兄さんお姉さんから学んだ内容を伝統として残していきたいことがあります。それを三つにまとめると、

①「何よりも神様を愛する」

②「自分を犠牲にして弟妹のために投入する」

③「何事にも全力で取り組む」

です。

 様々な成和学生活動の中で、時には兄姉に叱られ、あるいは励まされて深い兄弟姉妹の絆を築いてきました。

 これからも神様を愛する文化、兄弟姉妹の良き伝統を受け継いで、さらに素晴らしい成和学生会となります!

天地人真の父母勝利解放完成時代開門の摂理的意義

天地人真の父母勝利解放完成時代の開門

 年初の一連の行事(第45回真の神の日、第29回愛勝日、天地人真の父母様93聖誕・金婚および禧年、古希)の主題に関して、真の父母様は「“天地人真の父母勝利解放完成時代”の開門である」と語られました。そのごとくに、その後行われた祝福式には、天地人真の父母勝利解放完成開門時代祝福式(天暦3月1日:陽暦3月24日)と、“開門”の名称が入ったタイトルで挙行されました。

 さて、平和メッセージ5の中で、“天地開闢の後天時代は、明らかに天と真の父母様が開門してくださいました”と書かれているように、“開門”とは真の父母様の勝利によってなされるものです。

子女(祝福家庭)による結実

 さて平和メッセージ5の中で、“この福多き栄光の時代を花咲かせ、実を結ばせることは、今皆様の手にかかっています。”と書かれているように、真の父母様によって“開門”された内容を“結実”させることは私たち祝福家庭の使命です。

 今年、第45回真の神の日を中心とする一連の行事の合間に真の父母様は“天地人真の父母勝利解放完成時代開門”の発表をされた後、「もう古い服を脱ぎ捨てて新しい服に着替え、氏族的メシヤの使命完遂のために全ての祝福家庭、食口たちが総動員で前進しなければならない。」と強調されたように、私たち祝福家庭が子女の責任において真の家庭を完成し、氏族的メシヤの使命を完遂することによってこそ、栄光の時代を花咲かせ、“結実”させることができるということです。

まとめ

 真の父母様は、「私が神様を解放してあげなければならないのと同じく、先生にこびりついたものは皆さんが解放してくれなければなりません」と語られています。それゆえ、私たち祝福家庭が真の家庭を築き、氏族的メシヤの使命を完成させることによって、“天地人真の父母勝利解放完成時代”が実現し、真の父母様を真の意味において解放して差し上げることができるのです。

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その7:イザヤ②

穴につるされ、みじめに殺されたイエス様

 預言者イザヤは神殿の中で、呼ばわる者の声を聞きます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」(イザヤ6・3)。彼は、神の聖性を仰ぎ見ながら預言を語ります。そのメシヤ像は、聖なる方、栄光の王、平和の君でした。

 イエス様は、神様から遣わされた尊いひとり子、平和の王であったのに、見た目は他の人々と全く変わる所がありませんでした。そればかりか、その最後は惨めなものでした。

 「わたしは穴に下る者のうちに数えられ、力のない人のようになりました。すなわち死人のうちに捨てられた者のように、墓に横たわる殺された者のように、あなたが再び心にとめられない者のようになりました。…あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。」(詩篇88・4-6)

 詩篇には、こんな嘆きの祈りがあります。

イエス様は死の前日、ゲッセマネの園で捕えられて大祭司の邸に連れて行かれます。その夜、邸の地下の暗い穴に、屠られた家畜の如く吊るされていたと言います。明け方引き出され、ローマ総督ピラトの前で裁かれ、ユダヤ人に引き渡されて処刑されます。そんなイエス様には、栄光のひとかけらも見られません。

 ユダヤ人が期待したように、イスラエルをローマ帝国から解放し、平和の王として君臨することはありませんでした。しかも、神様にも呪われたかのような、木に架けられて殺されるという最期でした。それがどうして栄光の王、平和の君なのでしょうか。復活を経験したイエス様の弟子たち以外にはとても信じることのできないできごとばかりです。

苦しむ僕の姿を取られたイエス様

 ところが、マタイの福音書には、イエス様の十字架の傍らで番をしていたローマ兵が、この時の様々なできごとを目の当たりにして、「まことに、この人は神の子であった」(マタイ27・54)と言ったと記してあります。さらに、4つのどの福音書も、イエス様の受難と十字架の死を包み隠さず伝えています。彼らは、このみじめな死刑囚を、メシヤであると自信をもって宣教しているのです。

 ユダヤ人たちにはとても受け入れることのできないと思われた事実が、却ってメシヤの証となっていきます。その論拠も、また預言者イザヤのメッセージの中に見出していったのです。

 「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。」(イザヤ53・1)

 惨めな主の僕の姿が、そこに浮かび上がってきます。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53・2-5)

 死と復活を目の当たりにしたイエス様の弟子たちには、イザヤが語った苦しむ主の僕こそが、人々の罪を担い十字架の死を越えて行かれたイエス様の姿と映ったのです。

預言者イザヤとそのメッセージ

 イザヤは、南朝ユダ国のウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代の王の下で預言者活動を展開しました。それは紀元前8世紀の半ばから紀元前7世紀の初めにかけての時代です。

 “主の僕の歌”に歌われた苦しむ僕の姿は、もともとはイスラエル民族のことだと受け止められてきました。ハランを出て約束の地に向かって歩み始めたアブラハムに始まり、神の前に命まで捧げることを求められたイサク、ラバンの下で苦労したヤコブら父祖たちの人生は苦労の王様でした。その後孫のイスラエル民族も、エジプトの奴隷のくびきにつながれて400年間苦労してきました。カナン入国後も、列強との戦いに明け暮れ、気の休まる時はなかったのです。

 それは、神様が「あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12・2)とアブラハムに約束されたがためであり、アブラハム、イサク、ヤコブの三代がその約束を信じて生きたためでした。神様の祝福の素晴らしさを思えばw、どんな苦労も軽いものでした。イザヤは、民族にその原点を思い起こさせました。主の選ばれた義人が被る苦労には、人類にとっての特別な意味があることを王と民に伝えました。

 後にイエス様はイザヤの預言のごとく歩まれ、その意味を明かなものにしたのです。

原理講論を読もう♪㉘

20120615_190121②キリスト教から見る復活

 今号からは、前編第5章『復活論』について考えていこうと思います。この復活論とは、“イエス様の復活について”という意味です。イエス様は十字架にかかって肉体の死を迎え、お墓に運ばれます。3日後、イエス様を慕う女性がイエス様の死体に香油を塗ろうと墓を訪ねたところ、お墓がもぬけの殻になっているのを発見します。そこに天使が現れてこう言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない」(マルコ16・6)

 そしてイエスは弟子たちの前に現れながら、福音を世界に伝えるよう語りかけます。実は、イエス様は十字架にかかる前から「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきこと」(マルコ8・31)を弟子たちに預言されていました。その預言通り復活されて弟子たちと40日間を過ごされた後、また天へと戻られました。このイエス様の復活が、キリスト教の復活信仰の根本となっており、今でも終末にはイエス様が復活して世界を裁くと信じているのです。(ちなみにキリスト教の信仰によれば復活するのはイエス様だけではなく、これまで死んだ善人、悪人全てが含まれています。)このように、キリスト教における復活とは“(肉体の死から)再び(肉体が)活きる”ことを意味していますが、原理講論の復活論では“復活とは本当はどういう意味なのか?”ということに、焦点を当てて説明しています。ここでは原理講論に沿って、復活の意味を考えていこうと思います。

原理講論から見る復活

 上述したように復活とは、“再び活きる”ことを意味しますが、それではここで言う“死”とはどのようなことを意味するのでしょうか?“死”について書かれている代表的な聖句を例に考えてみましょう。「(イエスは)またほかの人に『わたしに従ってきなさい』と言われた。するとその人が言った、『まず、父を葬りに行かせてください』(イエスは)彼に言われた。『その死人を葬ることは死人に任せておくがよい。あなたは出て行って神の国を告げひろめなさい』」(ルカ9・59~60)

 ここでイエス様はふたつの“死”について語っておられます。ひとつの“死”は、語りかけた人の、亡くなって葬られなければいけない父親の“死”です。これは肉体がその機能を失うという、一般的に私たちが理解している“死”を意味します。しかし、イエス様は父親の葬式を執り行う人たちまでも“死人”と呼んでいます。彼らは葬式を執り行う肉体を持った“生きている人”であるにも関わらず、何故イエス様は彼らを“死人”と呼んだのでしょうか?

 それは、たとえ肉体は生きていたとしても、イエス様から離れてサタンの主管圏内にいる人だからです。神(イエス)の主管圏内から離れ、サタンの主管圏内にいるということは、神様が本来創造されるべき人間の価値から見ると、死んでいるも同然であるため、イエス様は“生きている人”を“死人”と呼んだのです。

 人間始祖のアダムとエバも同じです。神様はアダムとエバに「善悪を知る木の果から取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」(創世記2・17)と戒めを与えられました。アダムとエバは、神様の戒めを守らず善悪を知る木の果を取って食べましたが、彼らが死ぬことはありませんでした。このように、アダムとエバも肉体は生きていましたが、神様の主管圏から離れてしまうため神様は“死ぬ”と表現されたのです。善悪を知る木の果を取って食べた後、エデンの園を追放されたというのは、神様の主管圏から離れたことを如実に言い表しています。

復活と死の霊的関係

 元々人間は、時間の経過によって肉体が衰え“死”を迎えるようになっています。これは神様がそのように創造されたためで、肉体が死なない人間は誰一人としていません。イエス様も十字架にかからなかったとしても、寿命が来れば間違いなく“死”を迎えたでしょう。しかし、たとえ肉体が死んだとしても、神の主管圏内にいる者は霊的に見れば“生きている”のです。イエス様が「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と言われたのはこういう理由があるからです。

 このように、復活の意味とは“(肉体の死から)再び(肉体が)活きる”ではなく、“サタンの主管圏から神様の主管圏に復帰されていく過程的な現象”を意味しているのです。私たちが生活の中で信仰生活を行い、前日よりも神様に近づくことができれば、私たちはその分だけ霊的に“復活”したことになるのです。このように“復活”とは普段“死”とは全く関係ない私たちとも、密接な関係があるのです。

人間の特性

2012_06_20_D0202人間と神様の関係性

 統一教会の原理では、神様は無形の絶対的主体であり、二性性相の中和的主体として存在される方だといいます。二性性相として存在される神様の分性的実体としてアダムとエバを創造されたというのです。そしてアダム・エバが成長すれば、愛を中心として横的に結ばれ、縦的に神様と関係が結ばれるということです。つまり、アダムとエバが成熟したら、神様の男性性稟はアダムの心の中に入り、神様の女性性稟はエバの心の中に入るのです。しかし、神様が分かれるわけではありません。そのような二性性相の主体であられる神様なので、アダム・エバの心の中に臨在することができるのです。

 アダムは人類にとって何かというと、目に見えない内的な父に侍る実体的父の立場に立つのであり、またエバは内的な母である神様に侍る人類世界の実体の母として立つのです。こうして縦的基盤から横的基盤に拡大させるのです。

 神様はなぜアダム・エバを必要としますか?二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就することです。二つ目は何ですか?無形の神様が形状を持って現れるためです。そのため、無形の神様が有形の形状を持って有形世界と関係を結ぶことのできる基礎、その核がアダム・エバなのです。

神様の愛の対象

 人間は宇宙の被造物の中の傑作です。どれくらいの傑作かというと、皆さんが考えも及ばないほど大きく素晴らしい作品なのです。それならその主体者、つまり絶対的な神様がおられて人を創ったのなら、神様ご自身の話すこと、見ること、感じることを人が感じられないようにつくるでしょうか?

 神様は被造万物の中に神様の愛の対象となるものを創ったのですが、その存在が私たち人間です。神様の愛の対象を創るために全身全霊を込めて、ご自身のすべてを投入しきったのです。愛の対象を立てるため、神様はご自身のすべてを投入したのです。そうして何をしようとされたのでしょうか?宇宙に愛の核を定めようとされたのです。それが創造理想だったのです。

息子・娘としての人間

 今日、多くのクリスチャンたちは、神様は唯一無二の方であり、絶対的な方であり、創造主であり、神聖な存在として最高の位置におられるため、創造物である人間と創造主とは関係を持つことができないと考えています。創造物は卑しいもので、創造主は絶対的で神聖な方だと考えています。しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高至善の神様で、例え卑しい被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには人格的な内容が似ていなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。つまり、人格を持った人間と性稟が同じでなければならないのです。

 従って人間は誰に似て生まれたのでしょうか。神様に似て生まれたのです。それで統一教会の食口は「神様は私たちの父だ。私たちは神様の子女だ。」と言うのです。これは何を意味していますか?私たち人間は神様に似て生まれたということです。

 本来人間の特権は何かと言うと、どんな人であれ天の王国世界において王子として生まれることのできる権威を持っているのです。王女として生まれることのできる権威を持っているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威でした。

 では、人間の願いは何でしょうか?人間の理想や願いといったものは何でしょうか?どこに帰結するのでしょうか?何だと思いますか?その一つ目は何ですか?神様の息子や娘になるのが人間の最大の希望に違いないという結論になります。次は何ですか?神様に愛される息子や娘になることです。次は何ですか?神様のすべての存在を相続すること、それ以上はありません。分かりますか?人間の願いは何ですか?神様の子女になること、神様に愛される子女になること、神様のすべての存在を相続できる子女になること、これが全てなのです。

【二世の道p46より編集・抜粋】

神の子になれ!成和学生になれ!世界人になれ! ~成和学生会報第100号によせて~

家庭教育局 堀副局長

謝辞

 天の導きと多くのボランティアの支えを借りて、成和学生会報はついに100号を迎えることができました。多くの隠れた苦労の成果であり、決して簡単な事ではありませんでした。歴代の編集委員が、聖火リレーのように、この灯を絶やさないように受け渡してきた結果です。また、特に編集部のお二人には、読者である皆さんからも激励をお願いいたします。

成和学生の来歴と今後の展望

 成和学生会報の第100号を記念して、成和学生会の来歴と今後の展望について、お話しいたします。成和学生会とは、元来“成和キリスト学生会”とお父様が命名されたものです。

 第一のポイントは、“成和学生が統一運動の中核だった”です。

 統一運動の草創期は、第二次世界大戦や朝鮮動乱といった長年の戦争によって国は廃墟と化し、人の心も荒んでいた混乱の時期でした。そんな中、出発したばかりの統一教会に伝道された人々の多くは、学生でした。み言に出会った学生たちは、自分への関心以上に、国や世界を憂い、神様の国を建てようとする純粋な情熱に燃える若者たちへと成長していきました。これが成和学生だったのです。

 こうして韓国では、まず成和学生(中高生たち)が多く伝道され、その世代が後にCARPの中核となり、その後の統一運動の各分野に展開していきました。一世と言っても、みな若者だったのです。現在の皆さんと同じような学生の時期に、お父様の実体とみ言に触れ、人生の方向を決定していったのです。これが、すべての成和学生とJr.STFグリーンレベルの目指すイメージです。

 第二のポイントは、“成和学生会の中で、一世二世がともに信仰を培った”です。

 成和学生とは、“真のご父母様の子女”になり、“平和を作り出す者(Peace Maker)”のことです。真のご父母様は、若い人に対しては特に、みな真のご父母様の子女という意識がお強いのです。韓国では、統一運動をゼロから立ち上げた一世の成和学生たちが祝福を受け、二世たちも成和学生会に入るという形で、血統と世代を超えた天的な成和学生文化を作り上げ、世界に羽ばたかせました。

 皆さんは、絶望に負けない強い魂を持ち、希望を与える者となり、新しい時代を開拓する、燃えたぎる神の子になって頂きたいのです。そのためには、成和学生としての皆さんは、“一世”、“二世”、“三世”という枠組みに縛られるよりも、真の愛を中心とした兄弟姉妹の絆を太くし、良い影響を与え合う方向に向かい、さらには食口であるかどうかという垣根も越えて、若者の啓蒙と伝道教育に乗り出していただきたいのです。これが、Jr.STFピンクレベルのイメージです。

 第三のポイントは、“成和学生は、初めから為に生きる使命をもって出発した”です。

 成和学生会とは、天の摂理の前に、クリスチャンや若者たちを連結する使命があります。従って、成和学生は、伝道の使命を、出発の時点から持っているのです。自分のためだけでなく、学生やクリスチャンに対しても立派な模範となって、彼らをリードするのです。“信仰一番、勉強一番”というスローガンの根も、ここにあります。草創期の韓国では、成和学生が模範生となって、伝道をたくさんしていたのです。

 真のご父母様が、「学校や勉強が大事ではない」と言われる時は、それ以上に重大な摂理がある時にのみ、そのように言われます。基本は必ず、「学生の本分は勉強である。三倍以上勉強して、一番の模範生になりなさい。そして世界人になりなさい」とご指導されるのです。Jr.STFのホワイトレベルはここに照準を合わせています。

二世圏に期待をよせられるご父母様

 先日、真の万物の日の翌日、天正宮でご父母様の訓読会に参加しました。お父様は6時間にもわたって訓読会を主導されました。以前にもまして、お父様は、(必ずしなければならない話を、どんどん進めよう)という印象でした。長時間のみ言にも関わらず、お父様の瞳は終始明晰で、お話は速いテンポで展開しました。、別の日になりますが、真のお母様は、「公的に歩んでいる二世は何人いるか?」とお尋ねになり、二世青年圏に対する熱い期待を示されました。

 基元節を迎えるとは、たとえて言えば“新大陸に到着する”ようなものです。もうすぐにも、皆さんが縦横無尽に大活躍する舞台の幕が上がろうとしているのです!

 誠心誠意で未来を準備し、真のご父母様と共に、素晴らしい基元節を迎えていきましょう!