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Archive for 6月, 2012

心身統一②

修業と日常크기변환_870W0510

 私たちの中には、個人的修養について十分に理解し、強調しないまま、家庭のみを重要視してしまう傾向があります。“真の家庭建設”という目標に向かっていく過程で、個人の適切な精神的訓練はあまりせず、ただ“真の家庭”という枠にあてはめようとします。

 家庭間においても、腹を立てれば人を批判したりしますが、実際にこれは、自らの怒りを調節できないために起きる現象です。じっと内面をのぞき込んでみれば、自分の内面の“調整力不足”を正当化させたり、さらには、それを覆い隠したりしているのです。私たちは時折、“真の家庭”という名のもとに、子供たちにいかなる疑問も提示できないように、強制的な接し方をしようとします。

 このような問題は、家庭を構成している、より根本的な“個人”を見落としていることから来るものです。私たちの統一思想は、ほかの思想と最も大きく区別される特徴の一つとして、“家庭の重要性”を挙げています。これは正しいとしても、より重要な統一思想のテーマである“個人完成”や“心身統一”の必要性、また“横的八段階”の完成は、個人から家庭、氏族、社会、国家、世界、天宙、神様へと拡大していき、その第一段階は個人であることを忘れがちなのです。

 まず個人的な段階からの修養をおろそかにしては、真の家庭はつくることもできず、訪れることもないということです。もし、家庭の一人ひとりが、権勢をものにするために競争し、ほかの家庭に裁きの矢を放ったり、あるいは怒って乱暴になったりすれば、真の家庭と距離が遠くなることは自明の理です。心と体を統一し、怒りと憎しみと恨みを和らげ、感謝の思いと共に、内面の調和と喜びを育てたならば、より健康で祝福された結婚生活と家庭を作るチャンスが多くなるのではないでしょうか!

 率直に私たち自身を振り返ってみれば、家庭内での子供の誤った行動の原因を配偶者だけのせいにし、自分の権威を前に立てて自分のいうことだけを聞くように強要したり、自らが置かれた“内的な苦痛の場”にあって、ほかの家族に怒りを向けたり、自分の失敗を認めないなど、様々な誤りを犯している姿を見るようになるでしょう。日の沈むころ、海辺で妻と子供たちと一緒に踊っている一人の男性のイメージのような、“空想の幸福な家庭”の姿ではありません。家庭という枠の中で生きている事実は、夢を見るように漠然としたものではなく、非常に実際的なことなのです。今、描写したような幸福な家庭の姿は時々あるかもしれませんが、それだけが全てではないことは明らかです。海辺で永遠に踊っていなければならないとすれば、それほど辛いことはないでしょう。特に、夜になって疲れ、周りで震える子供たちが「家に帰ろう」とせがんで泣き出せば…。

世界平和は心身統一から

 私自身の生活を見るとき、父と夫の役割をしながら、同時に厳格な霊的修練をしていくということは、とても大変であると認めざるを得ません。しかしそれは、価値あることであるばかりでなく、統一教会員的な考えであり、努力であると信じています。たくさんの統一教会の信徒たちが、霊的な訓練を追及すると同時に、より良い父母と配偶者になろうと熱望してきました。個人の段階から霊的な訓練をするならば、子供たちや愛する人たちと過ごす時間を、どのように霊的な修練と実習の延長として変化させ得るべきかを学べるでしょう。

 真の父母様は、私たちに個人完成と真の家庭を成すことよりもっと多くのこと、例えば、社会で働き、真の国家を建設することなど、より大きなことを期待していらっしゃることをよく知っています。しかし、私は、最も基本的なこと、ここでは個人的統一と真の家庭を成すことが、世界平和など、より大きな目的を成すにおいての跳躍台となることを疑いません。

 世界平和を成すことと、個人の心と体の統一することは、基本的に別々のことではないのです。私たち自身の変化なくして世界を変化させようとすること、自分は変わっていないのに家庭を新しくしようとすること、個人の改革なくして社会を改革しようとするようなことはあってはいけません。改革は、最も基本的な段階、すなわち一人の男性と一人の女性が、それぞれの心と体を一つにしたのち、夫と妻となり、健全で堅固な真なる家庭をつくることから始めなければなりません。

【天和堂p10より編集・抜粋】

神の実存

神の実存を知る26-2

 人間はいったいどのようにして生まれたのでしょうか。人間はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。自分自身が第一原因的存在だと主張する人は一人もいません。原因はわかりませんが、結果的な存在として生まれたのです。結果的な存在として生まれた人間には、原因があるに違いないため、第一原因的存在として提示すべき何者かが存在しなくてはならないのです。ですから、神様についての問題を中心にした(考えた)上で、自分自身についての答えを出さなければなりません。神様を知った土台の上でのみ、自分個人の人生観というものが設定され、家庭がどのように進み、社会がどのように進んでいき、国家がどのように進み、世界がどのように進み、将来、世界の終末はどのようになる、という方向を設定できるのです。それは自分だけの方向ではありません。ですから、人間についての問題と、原因的な存在である神様がいるかどうかの問題を知らなければなりません。

 世界が一つになれなかったのは、中世のローマ教皇庁が本当の神様を教えてあげられなかったからです。そこから、世界が人本主義に転落してしまったのです。神様はいない、というわけです。妄想だ、虚構だ、というわけです。

 宗教には神様の究明が必要ありません。宗教というのは、神様を見出し、神様と共に生きようとするものです。それも理想的に生きようとする生活理念になっています。人生の幸福を神様と共に追及するのです。ですから真の宗教は神様と共に生きる宗教です。

 思想の問題も、神様を知らなければ解決できないのです。共産主義は唯物論を主張し、物質主義ですが、これを解決するにおいても神様を知らなければだめなのです。“神様はいない”というその主義を完全に滅ぼし、“神様はいるのだ”ということをはっきりと120%認識させなければなりません。神様を知らずしては、何事も解決できないのです。

自然にわかる

 人類が堕落しなったなら、神様がいるかどうかということを問う必要もありませんでした。それは本心でわかるのです。つまり、人類が堕落せず善の父母としてこの宇宙に現れ、家庭を成し、その家庭が繁殖してこの人類世界をつくったなら、今日の人類は神様がいるとかいないとかで論じ合う必要はなかったのです。血統がつながっているので、体でわかるのです。そこには説明が必要ありません。堕落により、神様と隔離された立場から出発して個人・家庭・氏族・民族・国家・世界と進んできたために、神様がいるかどうかを論ずるこのような世界になったのです。

 人類は堕落しなかったならば神様との関係を自動的に知って、自動的に解決して、自動的に行くべき方向を知ったことでしょう。ところが、堕落によってすべてわからなくなってしまったのです。だから神様がいるかどうか、疑う世界になったのです。

神様の偏在性

 人間の始祖であるアダム・エバが堕落しなかったなら、神様の愛を中心に一体となり理想の実体を成したことでしょう。そして、神様は私たちの内的父母となられ、アダム・エバは外的父母になるのです。地上の世界が地上だけで孤立するのではなく、神様を中心とする霊界が地上を代表した人類始祖と完全に一つになるため、神様を中心とした霊界は内的な面を表し、アダム・エバを中心としたこの地上は外的な面を表して一体になるのです。

 では、神様はどこにおられるのでしょうか。霊界ではなく、私たちの心の中心におられるようになるのです。すなわち、心の中心におられる神様と心の命令を受けるアダム・エバは一心同体なのです。それでは、皆さんは神様の偏在性をどうやって感じることができるでしょうか。それは、空気を神様の息吹のごとく感じ、台風が来たら、神様が世界のために苦難の道を克服してこられながら流された涙のように感じることができるのです。太陽を見るときには、その太陽がこの宇宙全体の生命の源を象徴することを知って、神様の愛を太陽に学べということです。

 神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本として、教材として発展したもの、愛する子供たちを喜ばせるための教材として作られたものが自然ではないですか?そうなのです。木の葉を見て自分の息子や娘のように思い、独りで語りかけることのできる人がいたなら、その人は聖人に近い人なのです。

【二世の道p18より編集・抜粋】

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その7:イザヤ①

会堂で教えられるイエス様

 公生涯のはじめ、イエス様はガリラヤ地方で教えを宣べ伝えていました。ある安息日に故郷のナザレの会堂に入り、ユダヤの習慣に従って聖書を拝読しようとしました。イエス様が手渡されたのは預言者イザヤの書でした。その箇所を旧約聖書に戻って引用すると、次の通りです。

 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」(イザヤ61・1-3)

 聖書を読み終えたイエス様は「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4・21)と言い、続けてみ言を語られました。その内容があまりにも素晴らしく、会衆は皆感動しました。しかし、ユダヤの人々は、ヨセフの子がなぜそのようなみ言を語るのかと驚き怪しみ、とうとうイエス様を会堂からも町からも追い出し、崖から突き落とそうとまでしました。

 イエス様は確かに、預言者イザヤが語ったことを成就するために来られた方でした。油注がれた者(メシヤ)として福音を告げるために来た、人類を神の下に連れ帰り、神様の喜びと栄光を取り戻す者がここにいる、とはっきりと宣布したいイエス様だったことでしょう。しかし、そのようにあからさまに説くことができず、預言者のことばを借りてしか語ることができなかったイエス様でした。「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。」(ルカ4・24)この時こう言われたのでした。

主の到来を告げる預言者

 イエス様の復活に立ち会い、聖霊降臨の恵みに与った弟子たちは、イザヤの預言の中に、地上では知り得なかったイエス様の本来の姿を見い出していきます。この方のことを、神様はあらかじめ預言者を通して語っておられたのだと理解したのです。

 マタイ福音書は、イエス・キリストの誕生の物語に、イザヤの預言を引用します。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ1・23)

 これは、もともとは南ユダ国を治めていたアハズ王にイザヤが告げた神様のメッセージでした。列強に囲まれたユダ国に希望のしるしを与えるというものでした。そして、国難の中にあって“インマヌエル(神われらと共におられる)”という方に信頼し、その方を遣わす万軍の主に希望をおくことを求めます。

 イザヤは続けてこう語ります。「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。」(イザヤ8・16-18)

 イザヤは、時が満ちるまでは神様も語ることができないみ言があり、預言者の存在自体が来るべき時を指し示すしるしであることを悟ります。イエス様も、故郷を追われ、本来語りたかったことを封印したまま、時のしるしとして振舞いました。

平和の君

 それでも、預言者イザヤは、メシヤ王の到来を告げます。「異邦人のガリラヤに栄光を与えられる」(イザヤ9・1)と言い、今日では、クリスマスには必ず読まれる希望のメッセージを続けます。

 「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。…ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ9・2,6)

 イエス様はガリラヤの地ナザレの出身でした。天の父である神様は“平和の君”として、天の権能をもって真の愛で地上を統べ治める方としてイエス様を送りました。南北王朝時代の預言者イザヤは明確には知らなかったけれども、預言を残し未来に希望を託しました。その希望の主が排斥され、殺されようとは、神様も、当の選民さえも夢にも思わなかったことでしょう。

原理講論を読もう♪㉗

イエス様を信じられなかったユダヤ民族sashie2

 前号に続いて原理講論第4章『メシヤの降臨とその再臨の目的』について学んでいこうと思います。今回学んでいくポイントは“イエス様と洗礼ヨハネの違い”と“なぜイエス様が十字架にかかることを預言した聖句があるのか?”という点です。

 洗礼ヨハネは自分が“エリヤ”としての的使命を持っているということを知りながらもイエス様に従うことを拒み、別々の道を歩みました。ユダヤ民族は“洗礼ヨハネはエリヤである“と語ったイエス様よりも、“自分はエリヤではない”と語った洗礼ヨハネを支持しました。なぜユダヤ民族はイエス様よりも洗礼ヨハネの語ることを信じたのでしょうか?それは洗礼ヨハネとイエス様にいくつかの違いがあったからです。

 最初に洗礼ヨハネはユダヤ民族の中でも有望な若手のリーダーでした。誕生のエピソードは前号で説明しましたが、彼の修道生活、水によるバプテスマ(洗礼)はユダヤの中でも知らない者がいないほど洗礼ヨハネを有名にし、彼を信望する人の多さはユダヤ教の派閥の中でも無視できないほどの勢力となっていました。また領主ヘロデが異母兄の妻を娶ったことに対して声高らかに“姦淫”の罪を訴えるなど、既成権力に対してもたじろぐことのない行動力はユダヤ民族の中でも一目置かれるようになり、民衆への影響力を持っていました。

 反面、イエス様はエルサレム郊外の馬小屋で生まれるほど人々の関心とはかけ離れた場所でお生まれになりました。イエス様が誕生した時に東方の博士や羊飼いは集まりましたが、世間的な注目を浴びることはありませんでした。またイエス様は幼少時代から公生涯まで特別な記述があまりありません。これはイエス様が公生涯まではほとんど社会的に目立った行動を取っておられなかったことの裏返しでもあります。ですから洗礼ヨハネに出会った時点でイエス様は世間的な認知度がほとんどない、人々から見ればどこにでもいる青年だったと言えます。このようにユダヤ民族の目からは社会的に無名であるイエス様よりも、洗礼ヨハネの方が信じるに値する人物だったのです。

新しい神観を説かれたイエス様

 次に洗礼ヨハネとイエス様が民衆に語る神観にも大きな違いがありました。洗礼ヨハネの神観は旧約時代から守られてきた“契約の神”、つまり神の言を守る者には祝福を与え、そうでない者には厳罰を与えるものでした。

 「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると誰が教えたのか。だから悔改めにふさわしい実を結べ…だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」(マタイ3・7)

 洗礼ヨハネが語る神は、善(律法を守ること)を行う者にとっては神ですが、悪(律法を守らないこと)を行う者にとっては審判主でしかありませんでした。この神観はユダヤ民族が古くから持ち続けてきた神観であり、強弱の程度はあっても、人々が比較的受け入れやすい神の姿でした。

 逆にイエス様が語る神は、これまでユダヤ民族が接したことのない神観でした。イエス様は“愛の神”、“赦しの神”を強調し続けました。神は善なる人だけのものでなく、罪人にとっても神であり、彼らの罪は神によって赦される、と語られたのです。

 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である…わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・12)

 他にも「右の頬を打たれたら、左の頬までも」「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」というイエス様の言葉はユダヤ民族にとって非常に新鮮で、ユダヤ教の神観からすると規格外のものばかりでした。イエス様は十字架にかかられる際にも「父よ彼らをゆるしてください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と自らの言葉通り、無償の赦しを実践されます。しかしこうしたユダヤ教の教えとはまったく違うように思えるイエス様の神観はユダヤ民族にとって受け入れ難かったに違いありません。それはユダヤ教を熱心に信仰する者であればあるほど受け入れ難かったと思います。そのため原理講論では新しい真理に触れる際には固定観念にとらわれてはいけないと強調しています。

人間の果たすべき責任分担

 最後に、聖書を見るとイエス様が必然的に十字架にかかることを預言している聖句が出てきます。こういった聖句はキリスト教において“イエス様は十字架にかかるために降臨された”という教理の根拠にもなっています。それとは逆に、イエス様がこの世の王となられ神の王国を築くことを預言している聖句もあります。なぜこうした正反対の聖句が存在するのでしょうか。その理由は“人間の責任分担”にあります。創造原理で学んだように、人間は完成するために自己の“責任分担”を果たしてのみ完成することができます。神の摂理でも同じように、人間(アベルとカイン)が責任分担を果たさなければいけません。人間が責任分担を果たせば摂理は成就されますし、果たすことができなければ摂理は成就されません。そのため聖書には人間が責任分担を果たした場合の聖句(イエス様が神の王国を建設される内容)と責任分担を果たせなかった場合の聖句(イエス様が十字架にかかる内容)の二つが存在するのです。

 イエス様が十字架にかかってしまったのは洗礼ヨハネを含め、当時の人々がイエス様を信じるという責任を果たせなかったため起きてしまった悲劇でした。再臨主を迎えている私たちは、イエス様の時代の失敗を繰り返すことのないよう、自らの責任分担が何かを問いかけ、それを果たしていける者となりましょう。

成和学生と成和子女に示される教育指針

 4月27日から5月2日まで、韓国・清心青少年修錬院で17か国から、26人の成和子女・学生教育担当者が集い、研修会がおこなわれました。その際に李妍雅祝司長が代弁された、“文亨進世界会長が成和学生と成和子女に対して示される教育指針”についての内容をご紹介します。(赤文字が妍雅様の語られた内容です)

1.一般教育から核心教育へ

 “礼拝を中心とした各教会での基礎教育を充実させ、真の父母様の業績や名節の意義、「原理」や聖書の内容をしっかりと教育する。そして、一般教育の土台の上にリーダー教育を行っていくこと”

 日本では1990年代から、各教区に担当者を立て、成和学生大会や中和文化祭等の文化活動面と、普段の礼拝を中心とした基礎教育を充実化させてきました。その土台の上に、2004年よりJr.STFプログラムがスタートし、リーダー教育の推進を図った経緯があります。今後も、一般教育と核心教育の両方をしっかりと充実させ、定着させていきます。

2.教育の一貫性と現場強化

 “礼拝など毎週行う一般教育と、修練会などの教育の内容に一貫性と関連性を持たせ、担当者と父母が同じ認識のもとで教育を行うこと”

 以前、韓国では現場の教育者不足から本部の担当者を現地に派遣し、補佐してきました。しかし、近年は教育の継続性を優先するために、それぞれの現場で教育担当者を立てるようにし、その担当者を3か月に1回、天福宮に集めて教育指導をおこなうようになりました。このようにして、天福宮で示す教育カリキュラムと礼拝コンテンツを担当者に共有し、教育の一貫性を図っています。日本においても、担当者研修や父母勉強会を各地でおこなっていますが、今後ますます、現場力の向上を進めていく必要があります。

3.聖書学習の重視

 “真の父母様を正しく理解するためには原理教育の基礎として、しっかりとした聖書教育が必要である”

 特に、韓国の中高生において、“キリスト教の若者を伝道する使命があること”に触れられ、聖書の知識を深めることが願われています。韓国と比べ、日本はキリスト教を信じる若者の数は多くありません。したがって、他宗教を信じる若者や良心的な人とビジョンを分かち合うことで、共鳴圏を形成できるよう、聖書や他宗教に対する理解を深める必要があります。小学生期に、特に聖書を中心とした教育を充実させ、中高生期では、その不足分を補填するイメージで教育を進めて下さい。

4.真の父母様中心の霊性開発

 “真の父母様を霊的視点、神様の視点で見つめることのできる霊性を培い、七度の十字架を超えられ人類を救済される七顚八起の真のお父様について深く知ること”

 李妍雅様は「私たちのために犠牲になられた真のお父様であり、私自身の救世主であるという実感を二世たちに持たせてください」と語られました。「30歳までは苦労させる」というお父様のご指導があるように、子女たちが直面する挫折や数々の試練を通して、逆にお父様の生涯路程と重ねながら、その心情圏を少しずつ体恤できるよう、ご指導願います。

研修の詳細は『TODAYS WORLD JAPAN』天暦4月号にも掲載されていますので、ご参照下さい。

鳥取教区成和学生会

IMG_9305-2② 突然ですが、みなさんは、鳥取県についてどのようなイメージをお持ちですか?

 鳥取県は、西日本一高い山である大山や鳥取砂丘など、神様がくださった自然がいっぱいある、とても素敵な県です。そのおかげで鳥取教区には純粋で素朴な成和学生たちがたくさんいます。

 鳥取教区には、鳥取教会、倉吉教会、米子教会の3つの教会があります。それぞれの教会が自分たちのカラーを出しつつ、一つとなって活動しており、主な行事としては、春・夏の修練会、成和学生大会、中和文化祭、幼児から青年までを対象とした成和文化祭などがあります。

 昨年は、地区中和文化祭のエンターテインメント部門・原理講義部門で優勝し、西日本大会では原理講義部門で3位という結果をいただきました。そして、今年の5月4~5日に行われた成和学生大会では2位になることができました。

 学生たちは様々な行事を通して、神様を意識することが増えたり、兄弟姉妹との情が近くなったりと、行事への参加を重ねる度に成長を感じています。

 今年の成和学生大会では、新たな学生会長のもと、みんなでスローガンを意識し、喜びをもって投入することができました。

 今、鳥取教区成和学生会は、縦的伝統をつくり、家族のような兄弟姉妹となることを目標としています。

 これからも神様・ご父母様に侍りながら、兄弟姉妹と一つになって頑張っていきたいと思っています。また、全国の兄弟姉妹の皆さんとの交流を通して、お互いを高め合えたら嬉しいです。これからも鳥取教区成和学生会をよろしくお願いします!!

夢に対する責任感の強さが“努力”だ!

夫馬代表成和学生部長

心情のコンセント

 お父様は、自叙伝の中で、“私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか?」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか?」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか?」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。”と記しておられます。

 成和学生の皆さん!基元節まで300日を切りました。真の万物の日、7・1節、7・8節、天宙統一国開天日、真の子女の日、真の神の日、天地人真の父母様ご聖誕日を天地人真の父母様と共にお捧げした後には、いよいよ基元節の歴史的出発の1日を迎えます。成和学生の皆さん!天地人真の父母様の真の愛に、皆さんの心情のコンセントは入っていますか?

日本の未来は私たちの努力次第

 先日ある教育関係の人から2050年のGDP予測についての話を聞きました。GDPとは、国内総生産で、その国の経済規模を示す際の最も重要な指標の一つであり、その予測についてです。そのGDPが2050年、成和学生の皆さんがこの日本を背負って50才を超える頃には、現在日本は世界3位ですが、インド、ブラジル、メキシコ、ロシア、インドネシアに抜かれ世界8位になる予測が出ているそうです。そして日本でも経済格差がはっきりしてきて、多くの国民が自分のことで精一杯の時代になるという予測もあるそうです。

 その話を聞きながら、私はあるテレビのインタビューを思い出しました。そのドキュメント番組はインドのある学生に、「あなたはなぜ勉強をしますか?」と問いかけます。するとその学生は「私は生きるために勉強をします。」と答えます。勉強時間、その姿勢、その努力は半端ではないです。そしてその学生が「私が必ずこの村の未来を救います。」と言うとそこに友達2人が来て、「僕たち3人が本気でがんばれば3つの村が救える。」と目をキラキラさせて答えていました。

 今、成和学生は8地区(愛知県・三重県)だけでも1260名がいます。もちろん成和学生の活動フィールドは日本のみでなく地球星ですが、神様の子一人ひとりが神様の目線でブレイクスルーすれば、この日本の未来は必ず変わります。成和学生の皆さんで良い意味でこの予測をはずさせましょう!

成和学生のVIP

 文亨進世界会長はいつも私たちの出発価値、すなわち神の子のアイデンティティを尊重し、心からVIPとして信じて見つめてくださっています。文亨進世界会長は成和学生たちの前で「生きていれば大小様々な困難に遭遇するでしょう。勇気を失い自らを疑うこともあるかもしれません。そのような瞬間にも私たちは自分が真のご父母様のVIPだということを忘れず、再び立ち上がることができなければなりません。ところで、ここでのVIPの意味は何でしょうか。

 VはValueの略です。皆さんは価値ある存在だということです。皆さんは神様の子女であり個性真理体です。皆さんは唯一無二であり、天宙的な価値を持った存在なのです。

 次に、IはIdentityです。皆さんの正体性をはっきり知らなくてはなりません。皆さんは6000年間、神様が待ち望んでこられた祝福の子女です。神様の目から見たときに、皆さんは本当に特別な存在なのです。皆さんは神様の息子娘です。世界の何ものにも変えられない貴い価値がある存在なのです。

 VIPの最後のPはPurposeです。皆さんははっきりとした人生の目標を持たなくてはなりません。神様は皆さん各自に特別な才能と潜在力を与え、祝福してくださいました。それに合った夢と目標を立て、努力するならば、皆さんは輝かしい人生を送ることができるでしょう。神様と真のご父母様に栄光をお返しすることのできる人生を送ることができるでしょう。これが正に私たちの人生における真の目的なのです。」と語ってくださいました。

夢を実現させるための努力と精誠

 また、文亨進世界会長は「カイン圏を自然屈伏することのできる内外両面の実力を身につけ、神様と真のご父母様の名を輝かせる真の孝子となりなさい。」とご指導して下さいます。自然屈伏!そうです。孝の心情を土台に、努力の基準はカイン圏のNO.1にあるのです。

 成和学生の皆さん!神様と真のご父母様に心から喜んでいただける、真のご父母様の名を輝かせるための夢を実現しましょう。その夢に対する責任感(召命+伝統の相続)から今日の努力、今日の一歩が生まれ、今日の生活行動として現れるのではないでしょうか?信念・情熱・確信!1日1日努力(精誠)を積み重ね、神様と真のご父母様への孝の心情を爆発させ輝く孝子として、希望の実体として、信念を持って夢の扉を開いていきましょう!

「強い日本」青年学生大会開催

seinentaikai-1-2 5月9日國進様をお迎えして、“「強い日本」青年学生大会”が開催され、首都圏の青年や学生など約1500人が詰めかけました。 

 國進様は、2005年に真のお父様が“天宙平和連合”を創設される際に、「韓国と日本、島嶼国家が一つとなって、中国やロシアという強大国の脅威から自らを守らなければならない。」と語られたことを紹介。「平和世界を実現するためには、私たちが再臨主を受け入れ、再臨主と一つになる道を選択すべきだ」と強調されました。