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Archive for 4月, 2012

夜の神様 昼の神様

イエス様のようなお父様12

 私たちがキリスト教の神学を勉強する時、重要な教義があります。まず初めに、三位一体の教義です。キリスト教神学では、神様の存在を、“聖父”、“聖子”、“聖神”の三つの位格が神様の実体中に存在するとみるのです。また、他の教義として、キリスト論があります。これは単純にイエス様の歴史的な歩みについての研究ではなく、歴史に現れた主、すなわちキリストはどれくらいの神性とどれくらいの人性を持っていたかに関する内容です。

 この二つの教義はある部分では連結していますが、性格が全く異なる教義です。ところが、“夜の神様、昼の神様”を理解するためにはこの二つの内容をよく理解することが重要なのです。私たちは“三位一体”の神学で、超越的な神様について研究します。これはすべての宇宙と時空間を創造する以前の神様に関するものです。この存在を神学者たちは“ゴットヘッド”と呼びます。神様の超越的な本質が何なのかということが、三位一体の神学の主な内容です。

 私が知るかぎり、お父様が夜の神様についてみ言を語られる時はこの神様について語っていらっしゃいました。超越的な神様、すべての万物の創造以前、時間と空間が始まる前の無の状態、夜の闇の状態、その見えない神様が“夜の神様”なのです。そして、有の状態、歴史が始まって時間と空間を創造後の、摂理の神様といえる、その存在がすなわち“昼の神様”です。お父様は、夜の神様は男性で、昼の神様は女性だと言われました。この神秘的な内容は何なのでしょうか?

 お父様は「私は夜の神様の管理を受けて、あなたたちは昼の神様の管理を受けるのだ」とおっしゃいました。お父様は、存在論的に私たちとキリストの違いについてはっきりと語られました。

 ところが、原理を勉強すると、メシヤは人間だと説明しています。しかし、最近のお父様のみ言を聞くと、ご自身を“生きた神様”と語られます。なぜお父様は、原理の内容を変えてご自身が神様だといわれるのでしょうか?私たちはこの問題を、三位一体の神学で理解するのではなく、キリスト論を通して理解する必要があります。

 キリスト論で最も重要な教えは、“キリストは100%人間であられる”という内容です。私たちはイエス様について研究しながら、メシヤ意識、メシヤの認識についても勉強します。

夜の神様から来られたお父様

 「私とあなたたちの違いが何か?私は夜の神様から、あなたたちは昼の神様から来たのだ」というみ言を簡単に説明すると、私たちはお母さんの子宮を借りて生まれますが、お父様は神様であるお父さんから来られたということを意味するのです。真の愛と真の血統の8大教材教本を見ても、お父様は“神様の種”から来られたと語られました。

 父母様が存在論的に夜の神様から来られたがゆえに、私たちは霊的、肉的な救いを受けられるのです。アダムとイエス様と真の父母様は、皆、神様の種でしたが、この種がすべて完成して木となって実を結んだかというと、そうではありません。

 ただ、天地人真の父母勝利解放完成時代を開いてくださった真の父母様だけが木になれて、実を全世界に結ばれました。私たちが今、どのような方に侍っているかよく考えてみると驚くしかありません。

 ユダヤ教とイスラム教では、「神様は完全に神様であられ、人間は完全に人間であるだけだ」と分析しますが、私たちもこれまで、原理を通してこのようにメシヤを分析してきました。神学的に見れば、私たちはユダヤ教とイスラム教の解釈に近かったのです。ところが、お父様が夜の神様と昼の神様に対する教えを通して、ご自身の存在論的な啓示をくださることで、今、私たち統一教とキリスト教、カトリックの間に存在した教理的な長い距離が確実に縮まりました。

 今やキリスト教を再び動かし、主の前に導くことができる驚くべき時代を、真の父母様が開いてくださったのです。そして真の父母様がどのような方であられるかが、正確にわかるようになります。そして、宇宙よりもっと大きな価値、全時間と空間の次元よりもっと大きな価値を持たれた私たちの真の父母様に出会うことができるでしょう。

【天一国食口礼拝1月29日】

真の学生

学生の位置と責任28

 人はだれでも自分の所属が無ければなりません。家庭に入れば父母に侍る息子・娘、あるいは母親・父親の位置を持っていなければならないのです。人それぞれに位置があり、その位置で関係を結んでいるので、任されたところの責任を私たちは果たそうとしているのです。例えば、ある父母の息子として将来を望みながら学校に通っている学生がいれば、彼には学生としての位置と責任があるのです。もしもその位置がなければかわいそうな人なのです。そのような位置がなく、そのような関係と因縁の中で、何かの責任を持つことのできない人は寂しい人です。

 そのすべての位置が明らかで、その位置を中心として、前後、左右、上下関係においてその人が要求するままに秩序正しく協助できる環境を持つようになるとき、人は無限に発展できるのです。しかし、いくら位置が決定されていて、その環境が具備されていたとしても、関係され因縁づけられるすべての周囲の環境が、その人が行く道の前に同行できない、反対になりうる、互い違いの環境になるときには、その人が行く道の前に困難が伴うのです。

 若い学生たちは、どんな目的で学校に行くのかということを考えられない学生たちがいます。自分は社会に出る。出てどこに行くのでしょうか。自分は国の重大な責任を持って出て行く。世界があるので世界を指導するために行くと言って出て行きますが、そこからさらに進めばどこに行くのでしょうか?

 人が成功するためには、目的観がはっきりしていなければなりません。行く途中で、ジグザグに上がったり下がったりすれば時間的消耗が生じます。時に対する消耗をもたらすようになるのです。皆さんが勉強する時、小学校から中学校、高等学校、大学を経て修士、博士コースを経ていくのに、自分が何を専攻するのかということは、とても重要な問題です。

 ある一定の目的を中心にするためには、必ず一定の時間が必要です。また自分の一定の量の努力を投入しなければなりません。また一定の努力の量を投入するとしても、そこにどのくらい精誠を尽くしますか?どれだけ体と心が一つになり、投入されるかというところに差が出るのです。

 それでは、全ての精誠を尽くすことのできる力を、原動力をどこからもってきますか?それが問題です。それを他者の力により補助を受けるか、自力で自分が主体性を発揮するか、という二つの立場に立ちます。この二つの道において、どの道が効果的かというのです。それは自体的な原動力を持つことができてはじめて、相対的に、外的に、だれも協助してくれる人がいなくても正しくいけるのです。

 それで自体的な原動力を備えるにおいて、いちばん必要なものは何ですか?その動機の核心となれるものは、何でなければならないかというのです。そこには心情的問題に悩まされても自分が主体性を持てる道、永遠なる精神を捧げられる基盤がなくてはなりません。このような高次的な愛の心情が、どこでそのような爆発的な原動力を私たちに提示するのでしょうか?それは必ず相対的関係、父母と子どもの間とか、愛する人と自分との関係とか、このような相対的関係を中心として生じるのです。そういう爆発的な刺激をどこで受けるのですか?愛で受けます。愛ですが、愛もその処する位置によって違うのです。互いによい環境か、悪い環境かという。

学生時代は準備する時

 学生とは社会の核、要素を終結させるのです。ですから社会の訓練場所、それが学校です。社会のいろいろな制度を核として関係を結んでいるのです。

 学校の成績が良い人が社会に出て優れた活動をするかというと、そのまま通用はしません。勉強を頑張った以上に、社会に出て活動しなければなりません。いくら勉強ができても、座ったままでは社会で出世できません。勉強を頑張って、いくらうまく就職ができたとしても10年、20年漠然と過ごしたら、そのままではほかの人に負けるのです。ですから共に伸びていかなければなりません。ある人が成功するか、しないかということは、ある一時に決定されます。一時が重要です。学生時代に何を残すべきでしょうか。すべてのことにおいて、それを確かめなければなりません。

【二世の道p172より編集・抜粋】

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その6:エレミヤ

若き日の召命

 預言者ホセアやアモスが、王と神の民に悔い改めを迫った紀元前8世紀。彼らの努力も虚しく北イスラエル国は滅亡しました。かろうじて存続してきた南ユダ国も、一世紀余りが過ぎて、北と同じ道をたどり始めていました。

 この時、神様はアナトテ出身の祭司ヒルキヤの子エレミヤを召し出しました。まだ20歳になったばかりのエレミヤに神様はこう語りかけます。

 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」(エレミヤ1・5)

 あまりのことに恐れ戸惑うエレミヤに神様はさらに強く、恐れるなと言われます。

 「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(同1・9-10)

 「万国の預言者とする」という神様の呼びかけは青年の心に圧倒的に迫ります。神様の存在を知らず、人々の不幸にも鈍感で、国は世界の窮状に目を留めず、己の幸福と安逸を貪るこの国の現状を如何にすべきか。若者の心に渦巻いていた疑問も葛藤も、その一切を蹴散らしてしまうほどに神様はその存在感を示します。

 後にイエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15・16)復帰摂理歴史をかけて、使命を託すことのできる人物を探してこられた神様が、この時声をかけたのがエレミヤでした。彼がこの召命に答えたので、神様のみ言は人々の耳に届きました。

嘆きの預言者

 エレミヤに託された預言は、しかしながら人々には耳に痛い言葉でした。既に滅び去ってしまったイスラエルさえ許されるほど、エルサレムの背信は神様の目には耐え難いことだとあからさまに言われ、厳しい裁きが告げられます。

 「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」(エレミヤ1・14)「わたしが北から災と大いなる破滅をこさせる」(同4・6)

 かつてユダヤの民は仲睦まじい夫婦のように神様と親しい間柄だったのに、若き日の純情な心を忘れ、不貞を働く女のようになってしまったと言います。それでも、エレミヤは裁きの背後に秘められた神様の苦悩を感じ取ります。愛に裏切られ、夫婦の契りを引き裂かれた者のような呻きが漏れ聞こえてきます。

 「ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。」(同4・19)愛する相対を愛することができず、裁かざるを得ない苦痛はどれほど大きいでしょうか。預言者の苦悩は、神様の苦悩と重なっていきます。

 その苦悩を増幅させたのは、職業預言者たちの態度でした。国の行くべき方向を正しく示し、民を導くべく立てられた職業預言者たちは、いつしか感性が鈍り、己の保身のために、エレミヤの語る言葉は偽りの預言だと非難し、甘い言葉で民を励まし、神の民に滅びなどあるはずがないと高をくくっていました。

 エレミヤは言います。「彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている。」(同6・14)神様から召命され、神様の本来の願いを見据えた預言者は、神様との親しい関係を結ぶ以外に真の平安、真の幸福はないことを知っているのです。

神の子の苦悩

 神と民との狭間に立つ預言者の苦悩も深いものでしたが、神のひとり子として来られたイエス様にとっては、偽りの父、サタンが支配するこの世においては、創造理想を完成するまでひと時も休まるところはありません。

 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10・34)と言われるイエス様。“平和の君”、メシヤの言葉としては厳しく直ちには受け入れがたいものです。しかし、サタン文化の中に選民が安住してしまった時、一石を投じなければならないメシヤでした。彼らが目を覚まし、本来行くべき神様の理想に向き直るためにです。

 それでも悔い改めないのなら、裁きを下さざるをえません。2000年前のエルサレムは、エレミヤの時以上に深刻な状況に立たされていたのです。それは、人類の救い主が地上に来られていたからです。この方をあなたはどうするのか?この問いに全摂理歴史がかかっていました。この尊いお方を拒絶したとき、エルサレムは滅亡に向かったのです。

 「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ…」(マタイ23・37)と嘆かれる神のひとり子イエス様の嘆きは、エレミヤの嘆き以上に深く激しいものだったことでしょう。

原理講論を読もう♪㉕

十字架による救い挿絵

 前号に続いて原理講論第4章『メシヤの降臨とその再臨の目的』について学んでいこうと思います。今回学んでいくポイントは“イエス様の十字架によって人類の救いは完成したのか?”そして“イエス様は十字架にかかるために地上に来られたのか?”です。

 キリスト教においてイエス様とは完全無欠なるメシヤです。十字架にかかって亡くなりましたが、それはイエス様が失敗したからではありません。イエス様は十字架にかかるために地上に来られた、というのがキリスト教の教理です。罪も無く、神と同等な位置にいるイエス様が人類の全ての罪を背負って十字架にかかられたので、そのイエス様を信じることが全ての救いに繋がる、というのがキリスト教の信仰です。つまり“救い”はイエス様が十字架にかかることで完成したのです。

 しかし十字架によって人類の“救い”が完成したならば、何故この地上には未だに天国ができていないのでしょうか?(2000年前にイエス様は人々に「天国は近づいた」と叫んでいたのに)そしてキリスト教徒の中にイエス様のような神の心情を理解し、神と共に生きた人がどれだけいたでしょうか?また信仰の篤いキリスト教徒ならば“救い”を受けたはずなのに、どうしてその子孫たちもまた“救い”を必要とするのでしょうか?こういった点から見ても、十字架による“救い”は完全なものではなかったということができます。だからといって原理講論では十字架の“救い”を全否定しているわけではありません。これまでのキリスト教の歴史、そして聖霊による恩賜がいかに大きいものだったかということを認めています(原理講論P180)しかし結果的には、十字架による“救い”は完成していないのです。

イエス様が生まれた本来の目的

 それではキリスト教が言うようにイエス様は十字架にかかるためにこの世に生れて来たのでしょうか?もしもイエス様が十字架にかかられるためにこの地上に来られたならば、十字架にかかったことも、そして十字架にかかるまでのプロセスも神の予定であり、計画だったということができます。つまり民衆がイエス様をメシヤとして信じなかったことも、ユダヤ教の指導者がイエス様を殺そうとしたことも、イスカリオテのユダがイエス様を銀30枚で売ったことも、ペテロが土壇場でイエス様を三度否定したことも、イエス様が十字架で苦しみながら死んだことも、全てが神の予定であり元々計画されていたことだったと言えます。ところがイエス様が死んだ後、弟子たちは揃って悲しみに暮れ、ユダヤ教指導者たちに対する怒りを露わにしました。その代表的な例がキリスト教の最初の殉教者であるステパノが死ぬ直前に残した聖句です。

 「あぁ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、いまやあなたがたは、その正しい方を裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」(使徒行伝7・51-53)

 またイエス様も自らをメシヤとして信じようとしないユダヤ民族に対して彼らの頑固と不信を嘆かれ、こう語られました。もしも神の予定でユダヤ民族がイエス様を信じないのであれば、イエス様は彼らを責めることすらしなかったでしょう。

 「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)

 また十字架にかかる直前にゲッセマネの園で深刻に神に祈られました。一緒にいた3弟子に「わたしは悲しみのあまり死にそうである。ここに待っていて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われるほど深刻な祈りでした(しかしこの後に3弟子はイエスの心情を理解できず、眠気に負けて眠ってしまいます)。(イエスが)うつぶしになり、祈って言われた「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」(マタイ26・38-39)

 このように聖句を見ると、弟子たちもそしてイエス様自身も十字架での死を神の予定・計画と考えていなかったということがわかります。イエス様の生涯を見ても、多くの個所でユダヤ民族がイエス様を信じることができるよう、神様が準備された役事やイエス様の努力を見ることができます。イエス様の誕生を知らされた東方の博士や羊飼い、人々が密かにメシヤではないかと噂された洗礼ヨハネがイエス様を神の子として証したできごと、民衆に希望と慰労を与えた奇跡の数々、そして人知を超越したイエス様の福音のみ言。これらは全てユダヤ民族がイエス様をメシヤとして信じさせるためのものでした。このようにイエス様が十字架にかかったのは神様の予定・計画があったためではなく、ユダヤ民族の不信によるものだと原理講論でははっきりと結論付けています。しかし旧約聖書を見るとイエス様が必然的に十字架にかかると預言する聖句があります。また一方では天国を建設され王として君臨されることを預言する聖句もあります。次号ではイエス様に関する聖句に関して学んでいこうと思います。

台湾成和学生会

團體照 現在、台湾の成和学生は合計101名おり、そのうち約50名が活動に参加しています。昨年8月、台湾の学生たちは、日本成和学生清平14日修練会に共に参加させていただきました。その後学生たちの中に二世としての自覚が芽生え始め、同時に成和学生会の活動も始まりました。

 台湾では、中高生の受験勉強に対する圧力がとても大きいということもあり、メインの活動としては、週1回の成和学生礼拝を行っています。9月から、成和学生礼拝が台北本部教会で始まりました。台北の本部教会には、35名の成和学生がいて、そのうち約25名が礼拝に参加しています。

 現在、台湾大学学生センターにおいて成和学生礼拝を行っています。スタッフを加え約40名が、8坪にも及ばない小さな空間で、ほとんど身動きがとれない状況の中、礼拝をおこなっています。礼拝の出席率は安定していて、毎週互いに励ましあい、学びあって、弟、妹たちのためにより良い基台を準備できるように、みんながさらに一つになろうという心情を持って、決意しています。

 台湾では今年9月に新学期を迎え、成和学生の人数が増加する予定です。そこで成和学生礼拝を台北本部教会、中壢教会、台南教会の3カ所で行うことになり、少なくても60名の学生が成和学生礼拝に参加することになります。

礼拝が始まってから今までの期間、計25回の成和学生礼拝を行いました。最初は手探り状態でしたが、現在は少しずつ軌道に乗ってきていて、これまで築いた基台の上に、より深く、より広く、そしてより明るい天的な雰囲気を成和学生礼拝の中に実現できるように努力しています。

成和学生の恵み

家庭教育局 佐野局長

人生を左右するできごと

 敬愛する成和学生の皆さん、お元気ですか。新年度を迎え、希望に燃えておられることと思います。

 昨年の今頃は、東日本大震災で日本中がパニックに陥っていました。1年を経過した今もなお、東北の皆様は心の傷や生活の不安を抱えて、不自由な毎日を過ごしておられます。3月11日震災一周年を迎えた日、TVでは、いろいろなドキュメント番組を放送していました。その中に、一人の女子高生が紹介されていました。

 当時高2で、おじいさんとおばあさん、両親と二人の妹の七人家族で、写真からも、見るからに仲むつまじい家庭でしたが、津波にのまれ自分だけが助かり、他は全員が亡くなるという大変な悲劇に見舞われた人でした。1年間叔母さんの家で暮らし、今年無事卒業してインタビューに答えておりましたが、意外だったのは、彼女が終始笑顔で応えていたことでした。彼女は言いました、「もう泣くのは止めました。明日に向かって希望をもって生きてゆきます。」一瞬にして家族全員を失う・・・皆さん想像ができますか。この1年間どんな気持ちで毎日を過ごしたのだろうか。想像しただけで胸が詰まり、涙が流れました。

 卒業式を前後して、“3・11一周年慰霊祭”があり、彼女は代表して弔辞を述べました。そこで、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、妹たち一人ひとりに語りかけておりました。それは、生前それぞれに最も印象深い想いのこもった言葉でした。そののち、すべて流され今だに土台だけ残る家の跡で、お線香を立て、たった一人で手を合わせ、すぐに涙をぬぐって、「今も家族は私の中で生きています。これからも一緒に生きてゆきます。」と、笑顔で応えていました。

 成和学生の皆さん。このできごとのように、皆さんと同じ世代で、人生そのものを左右するような体験をした人は少なくありません。大震災は、被災地の方々をはじめ、すべての人々に“家族とは何か。”“人が生きる意味とは何か。”という問いかけをしているのではないでしょうか。

人間が生きる意味

 ところで人間が、他の万物と最もちがう点は何でしょうか。知能でしょうか。技術力でしょうか。愛情でしょうか。そうは思えません。これらは動物、植物などにもあります。ここでは人間にしかないもの、つまり人間を決定付けるものそれが何かということです。それがまさに“宗教心”、つまり“人間が生きる意味はなにか。”と問いかけ、信仰やお祈りを通してその答えを求める心です。

 私たちは、もうすでに“統一原理”のみ言から、その答えを知っています。それは、人間や万物を生んで下さった神様、そして神様のことを誰よりも知っておられる真のご父母様にその答えがあるということです。その答えこそ“真の愛”なのです。人生の目的も、家族の関係も、永遠の世界である霊界を造って下さったのも、世界平和実現もすべては、“真の愛”のためです。先の女子高生を支えたのも、家族のなかに築かれていた愛があったからではないでしょうか。津波で肉身は失われても、霊界で今も生きている家族の一人ひとりが、彼女の心に語りかけているからではないでしょうか。

 今彼女が、み言に出会って、神様を知り、霊界に生きている家族を知ったら、どんなにうれしいでしょうか。もし前から、この家族がみ言を知っていたらどうだったでしょうか。こう考えるといたたまれません。

神様を証し、み言を伝える

 皆さんは、成和学生としていることが、どれほど恵まれた立場であるのか、ということをどれほど実感しているでしょうか。旧約聖書の伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」。箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」とあります。

 皆さんは、一生懸命に勉強して、トップの成績や得意な分野のNo.1をめざして努力していることでしょう。聖書で記されていることは、神様を知り生きる目的をはっきり自覚した時に、始めてそれは生きた知識、実力となるということなのです。

 皆さんは、すでにその環境のなかにいるのではないでしょうか。それがなにより恵まれている意味です。しかし周囲はそうではありません。まだ真の神様を知らない人が大勢います。

 3月5日から12日、東日本大震災一周年をはさんで、日本を訪問して下さった真のお母様は、希望にあふれるメッセージをくださいました。それは家族で訓読会を守って、すべての人に神様と真の父母様を伝えてこそ、日本はこれ以上の試練をさけることができ、神様が守ってくださるというのです。

 今日から皆さんの友人や先生たち、そして親戚の皆さん、地域の人たちに神様を証しましょう。最初は皆さんの態度と行動をもって。次にはみ言を伝えて。1日も早く天一国を実現しましょう。

2012年度成和学生部

 新年度を迎えました。先日の5年振りのご来日の際に真のお母様は、“世界で最も過酷な子育てをする鳥”と言われるコウテイペンギンに触れられました。繁殖地を求め150㎞内陸に移動し、産卵後メスは再び餌を求めて海へ向かい、オスはマイナス50度の極寒の中で卵を温めながら孵化を待ちます。吹雪の中でただひたすら立ちつくし、わが子の誕生を待つのです。実にコウテイペンギンのオスは、繁殖のための内陸への移動、産卵と孵化、再び海へ向かう120日間も絶食状態で、体重は普段の半分以下になるそうです。これ程までの過酷な環境下での、彼らの行動の原動力となったのは、わが子に対する“希望”です。真のお母様はご来日の期間中に何度も希望を強調されました。

 では、“世界で最も過酷な子育てをする生物”はどんな生物でしょうか?私は様々な要素を総合的にみて“ヒト”だと思います。そして時に悩み、迷い、裏切られ、忍耐の限界を何度も突きつけられても、人がその子女を生み育てる理由、原動力は“希望”ではないでしょうか?人の人による子女教育とは、世界で最も過酷なものであるからこそ、最も大きな希望を秘めたものだと感じます。神様と人間とがそうであったように、無限の理想を抱き、この最も過酷な子育て(子女教育)に挑戦していきたいものです。

 2012年度を迎え、成和学生部も新しいビジョンとミッションを掲げ、新しい出発をします。今後も紙面を借りて、この成和学生部の方向性をお伝えしていきます。本年度も宜しくお願いします。

 

成和学生部 ビジョン

 『神様の真の愛を相続する成和学生を育成する』

 『平和世界を創建する成和青年へと輩出する』

成和学生部 ミッション

 1.成和学生VIP教育の徹底
  目標:①天的主体性の確立、②祝福候補者化、③天民化基礎確立

 2.心情文化活動の活性と共同体信仰の定着
  目標:①二世再伝道、②心情文化共同体、③アウトリーチ

 3.礼拝開発と礼典生活の習慣化
  目標:①伝統の相続、②感動する礼拝、③生活信仰

 4.Jr.STFプログラム成熟化と公的意識の確立
  目標:①成和学生Green化、②核心FE育成、③家庭教育基盤造成