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Archive for 1月, 2012

思いの列車

思いによる囚われ??? ?? ??./2009.09.30/?????

 祈祷する時、心が乱れることがあります。例外なく、すべての人が経験したことでしょう。様々な雑念が入ってきて、集中できなくなります。心がこれらの雑多な思いに全速力でくっつき、それらに囚われ、結局それにはまり込むようになります。

 この分裂状況の中で、たくさんのエネルギーが浪費されます。雑念が心の中に入ってくれば、それは列車のようであり、駅に留まってすべての乗客たちを乗せます。どれほど頻繁にそのような“思いの列車”に乗り、他の思いの列車に乗り換えているか、そうして結局は“空想”という場所にたどり着いているか、悟れずにいます。

 また、このような思いの列車は、沈黙の祈祷の中にも近付いてきます。私たちが心を鎮めようと努力する時になると、過去または未来に対する思いの列車が、すき間なく私たちを占領しています。過去のあることのために、自分や他人を非難し、執着したままでいます。そのことを何度も反復して考え、怒りと恐れと憎しみがその中から泉のようにわき出てくることを感じるのです。もう一方では、未来への恐れ、または失敗への心配に囚われてしまいます。

 過去や未来の、どちらの思いの列車にいても、私たちは、最も重要な場所である“現在”にいないのです。現在という瞬間こそが、私たちには実際的なものであり、それは無限に継続して新しい宝を一つひとつ見せてくれ、一瞬一瞬、新しい姿で近づいてきます。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ隠されています。もし、私たちが今ここにとどまらないのならば、過ぎ去らないように過去を掴んでいるばかりではなく、未来のために進むこともできないのです。

 問題は、私たちがこのような思いの列車に乗っているということです。このような列車に乗り、私たちの利己的自我は、過去のことと未来の夢とをつないで楽しんでいるのです。“私はその時、幸福になれるはずだったのに、このように不幸になった理由は、彼女がこうしたり、あのようにしたからだ”と言い、“私が一生懸命にやったのだから最高になるのが本当なのに、このようにはなりたくなかった”と言い、努力不足だったことを正当化したりします。このように私たちは、過去に縛られた罪人として“現在の苦難の状態は外的環境の結果だ”と言い訳しながら生きているのです。

 現実的に私たちは、すべての人が何らかのストレスを受けて苦労しています。それは、肉体的な空腹や疾患よりは、精神的な苦痛と苦悩です。私たちは、過ぎ去った過去に対して、私たち自身や誰かのせいにし続けており、そうすることによって未来に限界を作っているのです。私たちは、“これとあれはできない”、または“あれは私には到底できない”と言うのですが、これは、自らに精神的な限界を付加するにすぎません。しかし、不幸にも、このような考え方が私たちの未来を決定するというのです。

 私たちができると信じればできるのであり、そうでなければできないのです。ストレスでいっぱいの現在の世の中で、心を静かに落ち着かせ、心の平和に近づいていく人は、疲れて倒れることが少なく、より多くの心の忍耐と明瞭さを所有するようになります。

心の解放

 絶望してはいけません!ちょうど、すべての暴風もいつかは終わるように、思いの列車もやはり消えるのです。思いの列車に乗っていることを“知る”ことで、それを主管する能力が生じるのです。今から私たちは、自由に列車から降りることができます。喜んでも憂鬱になっても関係なく、思いの列車を認識できるようになれば、それらが永遠なものではないという事実を悟るようになります。それは過ぎ去っていくものにすぎません。喜びを感じるのならば、そのような気分にはまり込むばかりではなく、その喜びを経験すると同時に、ほかの人をもっと喜ばせることができる、より持続的な価値に対して考える訓練をすることができます。すなわちいつでも希望があるということを教訓として学べるのです。

 私たちの感情の状態が大きな喜びであろうと深い悲しみであろうと、それが過ぎていくものであることを知るだけでも、驚くほど自由になれます。特別な瞬間の喜びが永遠でないことを知っているので、より深い感謝と成熟した喜びの時間を過ごすことができます。同じように、大変なことにぶつかるようになれば、遠からず新しい日とチャンスが訪れるという希望をもって、それに打ち勝っていくことができるのです。

【二世の道p22より抜粋】

神様

神様は無形の存在1_6

 神様は知恵深い方です。神様は自ら“見えない主人になろう”そういう考えができるのです。便利な道を選ぶとなると、人間たちの知らないうちに、そっと神様一人で思いのままにできるように、人間がいくら追いかけても捕まえることができず、見ようとしても見えない存在になるのが一番便利な方法でしょう。それでもって主人として君臨すればよいのです。分かりましたか?そうやって君臨するのが理想的なのであって、210億光年にもなる宇宙に「我が懐に抱かれよ、お前は我がうちにあれ」と言うそんな図体をした神様だったら、神様としてやっていられるでしょうか。その神様に心があるとすれば、心から体までの距離はどのくらいになるでしょうか。その大きな体と心が互いに訪ねて行くには、どれだけ時間がかかるでしょうか。

 そのように考えると、知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央に立って思いのままに動き回れる、無形の存在としてこれを支配するのが一番便利だと考えたのです。では、誰か文句を言う人がいますか?神様は無形であるだけに、存在世界を自由に通り抜けて行っても、少しの支障も感じる人はいません。皆さんにも体がありますが、神様が来て自由に通り抜けてもわからないのです。神様が、ウトウト居眠りしている皆さんの体を踏んで行っても気づかずにいるのです。だからとても都合がいいのです。一番都合がいいでしょう?したがって、神様はよく考えた末に、目に見えない存在でいるのが一番便利だということで見えない神様になった、という論理は妥当な論理なのです。

 皆さん、空気が体を出入りしているのを知っていますか?空気が出入りするのも感じないのに、神様が出入りするのを感じられるかというのです。こうして神様は、無形の神様でいることが最も便利な方法だと判断し、この宇宙を支配できる、宇宙を風呂敷に包んで余りあるほどの神様でなければいけないと考えたのです。

神様は体恤して分かる

 では、“神様はいる”、漠然と“神様はいる”と言うと、私たちにはあまり関係がないような気がします。神様がいるならいるで、私たちと何の関係があるのかと言うのです。関係、どのような関係を持つかということが重要なのです。“神様はいる、神様はいる”と言うのは、言葉だけではないのです。原理を通して主体と対象の関係を中心として見る時に、私たちは、神様が不可避的にいなくてはならない存在だという立場ではなく、“神様は私が考える以前から存在していたのだ。私のすべての感覚、私の一切のものを主管する神様だったのだ”という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。

 “認識して知る”のが原則ではないですか?“知って認識する”ではなく、“認識して知る”ようになっています。私たちは、寒いなら寒いということを知ってから感じるのではなく、寒いことを感じてから知るのですね。それと同じように、皆さんは、神様がいるなら神様がいるということを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。すなわち、体恤的立場をどのように確立するかという問題、これが問題なのです。

 今日、私たちは“神様の愛を受けたか?”あるいは“今、神様の愛を受けているか?”と聞かれたら、何と答えるでしょうか?世界中の神学者の中には、神様がいるのか、いないのか分からない人もいます。神様は頭で知るのではなく、心情で体恤しなくてはなりません。感じなくてはならないのです。皆さん、これが問題です。皆さんは寝ている時も「お父様」、独り言でも「お父様」と言えなければならないのです。世界中の人々が自分の相手を慕う以上の慕わしさが込み上げるようでなければなりません。そうして食べることも寝ることも忘れて、その生活の内面に天のお父様への慕わしさを持って、「お父様」と呼べば、目の前にお父様の姿がなくてもお父様の手が握られるようになるのです。そういうことがあるのです。夢のようなことが起こるのです。「お父様」と呼べば、お父様の懐に抱かれるようになるのです。このような中で体恤的感情をいかに体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いものであることを皆さんは知らなければなりません。

 そのような体恤の感度、感じられる度数、その量がその人の信仰の基準になりうるのです。そのような愛の心情を持ったならば、どこへ行ったとしても「私がこれをしなくてはならない」と言う時には、「天よ、共にいてください」と言う前に、すでに神様は共にいてくださっているのです。そのようなことを皆さんが感じる時には、「神様、感謝いたします」と言うようになるのです。

【二世の道p22より抜粋】

神様と私たちの関係

家庭部 松山次長

新しい芽

 皆さんは毎日何を考えながら生活していますか?

 学校でのできごと、友達との関係、勉強のこと、好きな趣味や部活、将来の夢、見たことのない外国や世界の国々のこと…、青少年期の皆さんの心には色々な考えがいっぱいに詰まっているでしょう。友達と喧嘩をすれば、どうやって仲直りをするか悩んだり、自分自身がよくわからなくて不安になったり、そうかと思えば楽しくてしょうがないことに熱中して時間がたつのも忘れたり…。皆さんのように子供から大人へと成長していく時期を思春期と言いますが、真のご父母様のみ言にもあるように、この時期は、心や感性がとても敏感で、多くのことを学んで、吸収して成長していきます。

 今まで経験したことのない、新しいできごとに出会い、たくさんのことを感じながら過ごしている皆さんですが、今、自分はどこに立っているのか、ということについて、深く考えたことはあるでしょうか。

 10年前、皆さんは今より幼い子供で、お父さんやお母さんに守られて、毎日を過ごしていたでしょう。そして、さらにその10年前には、皆さんはまだ、この地上に存在しておらず、皆さんのお父さん、お母さんが、その時を一生懸命生き、やがて生まれてくる皆さんを迎えるために、毎日悩んだり、努力したり、み言を学んだり、祈ったりしながら、準備をしていたのです。その生きた時間が今、皆さんを生かし、存在させているのです。

 皆さんが今、毎日を生きている、様々なことを感じている、その土台には、お父さんとお母さんの何十年の人生と生命、さらにはお爺さん、お婆さん、ひいお爺さん、ひいお婆さん、先祖の人たちの生きた時が連なっています。何百代につながる、その大木のような世代の中で、皆さんはその一番の先端に芽生えた新しい新芽のような存在です。私たちは皆そうですが、根があって幹があり、枝があるから芽を吹くことができたのです。

私たちの根本は神様

 そして私たちが今、生きている、その一番の根本は神様です。

 神様がこの宇宙を創り地球を創り、自然、万物を準備してくださって、息子、娘として人類を生み出し、愛し育ててくださったからこそ、今、私たちはここにこうして立っているのです。そして、新芽が自分で生えている木との関係を否定して、切ってしまったら生きていくことができないように、私たちが本当の意味で生きていくためには神様との関係、親子の関係がなくてはならないのです。

 ところが、親子の関係を確かめたくても、神様は見えません、声を聞くこともできません。そんな時は静かに目を閉じて、心の中で、「神様、天のお父様」と語りかけてみてください、心の中に神様と自分のつながりを感じることができるはずです。今すぐに感じることができなかったとしても、毎日少しづつ、神様に語りかけ、相談したり、うれしいこと、悲しいことを報告していくと、神様との関係がだんだんと深くなって、神様に愛されている、神様と繋がっていることがわかるようになります。

神様との心情因縁の重要性

 このように、神様の心を一番深く感じ、神様の心情を知って、さらには、誰よりも神様の願いを果たそうとしているのが真のご父母様です。ご父母様は、私たちと神様をつないでくださる太い幹なのです。私たちの根本である神様を知り、真のご父母様を知って、その関係を大切にしながら日々の生活をする時、一人だけで生きるのとは違う、より豊かな、生き生きとした人生が歩めるようになるのです。だからこそ、私たちにとって神様、父母様、両親が絶対に必要であり、祈祷をはじめとした親子の授受が必要だということを知ってください。

 また、嵐が来た時、一番激しく揺れるのは新しい、やわらかい葉の部分です。私たちが生きる中で、時には辛いこともあるかも知れません、どうしようもなく心が揺れる時が来るかも知れません。しかし、そのような時こそ、神様は愛の眼で見守っていてくださっているということを忘れないでください。一見何にもない平凡な日も、苦しくてたまらない日も、一生懸命私たちを励ましてくださっている神様です。

 大木としっかり繋がった新緑が、どんな嵐にも吹き飛ばされないように、皆さんが、ゆるぎない心情の因縁を神様と結び、神様、真のご父母様との関係性を大切にし、そこからより多くを吸収し、相続して、より大きく生き生きと成長できることを、心から願っています。

第14期Jr.STF選抜修練会・第12期FE選抜修練会開催

SONY DSC 2004年に出発したJr.STFプログラムは、今年度の教育方針である、

①天的主体性の確立

②祝福候補者化

③天民化基礎確立

を教育の柱とし、成和学生が二世としての自覚を持つ機会として、そして心情文化を拡大する出発点として、歩んできました。2006年(選抜開始)以降のGreen修練会に4000名以上が参加しました。

 Jr.STFメンバーの入口となる選抜修練会は今回で14期目、FE選抜は12期目を迎えました。これまでに12500名以上が選抜に挑戦しました。

 今回の選抜修練会は12月10日に行われた千葉会場を皮切りに、北は北海道から、南の沖縄まで全国15会場で開催されています。修練会では、体力・意思力テスト、論述試験、面接試験、原理試験など様々な項目が期間中に行われます。特に体力・意思力テストは長い距離を走りながら自分の限界を超えることで、神様を感じることのできる貴重な時間となっています。年々チャレンジャーが増加する中で、多くの成和学生が神様との父子の関係を築く良い機会となっています。

<参加したチャレンジャーの感想文>

 体力・意思力テストでは挑戦中、息が吸えなくて本当に辛かった時もあったけれど、お父様は自分とは比べものにならないくらいに苦労されていて、その道を一人で歩まれていると思った時に、本当に疲れていたけれど、ここで自分が歩いてしまうのが申しわけなくて、それだけはできませんでした。

 そして体力・意思力テストをする前に、神様には「自分が一生懸命走ってみせるので見ていて下さい。そして走りきったときに悪魔に見せつけてください」とお祈りしたので、絶対に走りきること以外は考えられませんでした。

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その3:エリシャ②

 

後継者の証

 エリシャは、エリヤの後継者として、イスラエルの民をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に立ち帰らせるために生涯を捧げ、いかなる支配者にも屈することなく、多大な影響力を持ちました。彼の活動期間は、北イスラエル王国のアハジヤ王の時に始まり、ヨラム、エヒウ、エホアハズ、ヨアシまでの5代、およそ60年間に及びました。

 エリヤが天に昇るのを見た後、エリヤが遺した外套を取り上げ、ヨルダンの水をこれで打つと水が分かれてエリシャはそこを渡ります。エリシャの奇跡の始まりです。エリコで預言者の仲間たちは「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」(列王紀下2・15)と言って迎えます。しかし、まだエリヤのことを慕う人々は、50人のしもべたちを使い3日間エリヤを探してみますが、見つけることはできませんでした。

 こうして彼らはエリシャの下に集います。孤独な戦いを強いられたエリヤに代わり、エリシャは志を同じくする協力者と共にイスラエル全家にその威光を示すことになります。

奇跡の預言者

 「彼は生きている間、不思議な業を行い、死後もなお驚くべき業を行った。」(シラ48・14)と言われるように、エリシャは数多くの奇跡を行いました。

 まず、エリコでは水が悪く流産するというので、水源に塩を投げ入れて良い水に変えました。ある時は、負債を負って苦しむ未亡人を哀れに思い、借金の返済と生活費のために、油を増やしてやりました。シュネムに住む家庭にようやく生まれた男の子が死んでしまった時、母はエリシャに取りすがって助けを求めました。哀れに思った預言者は、その子を生き返らせました。

 また、仲間が食事を準備していて誤って煮物に毒草が混入してしまった時、エリシャは粉を入れて毒を消しました。さらに、20個のパンと一袋の穀物で100人の腹を満たしてやりました。

 なかでも最も有名なエピソードは、イスラエルを脅かす隣国の将軍ナアマンがエリシャの力を頼り訪ねて来たので、その重い皮膚病を癒したことです。

 エリシャはナアマンに言います。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」(列王紀下5・10)これを聞いたナアマンは怒りました。もっと劇的な治癒の奇跡を見せてくれると思ったのに、期待外れだったのです。それに、ヨルダン川は、自国の川と比べても、特別清流でもなく水量が多いわけでもなかったからです。しかし、部下たちは難しいことではないのだから預言者の言葉に従うようにとナアマンを説得します。それで「神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった」(列王紀下5・14)のです。喜んだナアマンはエリシャに頭を下げ、イスラエルのほかに神はないと悟り、自国で主に仕えることを誓いました。

奇跡が示すもの

 エリシャはそれ以外にも多くの奇跡を行いましたが、自らの不思議な力を誇り人々を従わせるためではありません。力ある業は人からではなく、神から来ることを知らしめるためでした。エリヤから始まる預言者たちの叫びは、奇跡を見せてでも、イスラエルの人々に、また、その周辺の国々にも、生きて共におられる神を知らせたいということでした。

 その中で重要なのは、神が立てられたイスラエルの国王が神の言葉に耳を傾け、神の願いに合わせた政策を施すようにすることでした。預言者の努力は、そこに向けられています。アブラハムを召し、イサク、ヤコブと受け継がれ、モーセによって民族的な広がりをもち、約束の地に入ってようやく国として建てられたイスラエル。その国は、彼らを導いた唯一の神、創造主であることを知る王によって正しい道を歩み、国民の安全も保障されます。預言者の使命は、イスラエルの神が導くことのできる国王を立てることにあったといってもいいのです。

 エリヤはアハブ王に偶像を廃するようにと、たった一人で戦いました。エリシャは預言者のともがらを従えて、この使命に取り組み、遂には、アハブの家系を断って新しい王を立てるに至りました。エリシャが亡くなる直前、ヨアシ王は涙ながらにエリシャに「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」(列王紀下13・14)と言います。それは、天に上げられるエリヤに向かってエリシャが叫んだ言葉と同じものでした。

 エリヤ、エリシャから800年後に来られたイエス様も、多くの奇跡の業を行いました。預言者たちの言動を見る時、地上では預言者の姿をもってしか歩むことのできなかったイエス様の、心に秘められた心情の一端を見出すのです。

原理講論を読もう♪㉒

 

終末は三代祝福が成就された世界

写真 前回までに終末とはサタン主権の世界から神主権の世界へと移行していくクライマックスの時代であり、それは再臨主(真の父母)を迎えている現代だということ、そして終末にはご父母様のみ言によって神様に繋がっていくのだということを整理しました。

 それでは現代が終末であるならば、それを裏付ける終末的現象とは一体どのようなものがあるでしょうか?これまでも説明した通り、終末とは神主権の世界が建設されていく最終段階です。神主権の世界とは三大祝福が成就された世界を意味しますので、終末現象とは三大祝福が復帰されている現象だと言えます。ここでは三大祝福が復帰されている現代の現象を考えてみながら、現代が終末であることを再確認しようと思います。

個性完成と終末

 第一祝福は“個性完成”です。個性完成とは神様を中心に心と体が一体となることを意味しています。元々、アダムとエバは未完成の状態でも神様と一問一答し、心情を通わせることができました。しかし堕落することにより神様と遠い存在になり、一問一答はおろか、その存在自体を感じることができなくなってしまいました。人類は神様との関係を回復するために、精神修行をはじめとした宗教活動をおこなってきました。宗教の発展は、そのまま人類の心霊の成長に大きな影響を与えました。キリスト教に代表される宗教の博愛思想や平和思想は、人間の基本的な人権や尊厳を向上させるのに大きな役割を果たしました。(前々号参照)

 また聖書には終末に起こる現象を「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝2・17)と表現しています。この聖句は終末に神様と霊通する人が増えることを意味しています。この聖句の通り、お父様が生まれる1920年頃の韓国では、霊界と通じ、再臨主が韓国に現れるという啓示を受けた人が数多くいました。そういった人々が神霊集団と呼ばれるコミュニティーをつくりだし、そこに多くの人々が参加し、再臨主の誕生と永遠の平和世界建設(キリスト教では千年王国と呼びます)を、本気で信じ、待ち望んでいました。

 イエス様の時代にも、こういった霊界と通じる人々が現れました。イエス様が公生涯を出発し時に、イエス様を証し、洗礼を授けた洗礼ヨハネという有名な人物がいました。彼は普段は荒野でらくだの毛衣を身につけて祈祷生活を送り、いなごと野蜜を食べて過ごしたといいます。こうした修道生活を送る集団が民衆を味方につけ、大きな力を持っていた時代でした。こういった霊界と通じる人々の力は、再臨主が誕生した時に、そのまま神主権を打ち立てる力になるはずでした。

家庭完成と終末

 次に第二祝福は“家庭完成”です。家庭完成とは、神様を中心とした家庭を完成し、その家庭が集まって神を中心とした社会を、国家を、世界を完成させていくことを意味しています。キリスト教やイスラム教に代表される世界宗教は、1000年以上の時間をかけて世界に共通の文化圏と思想を普及していきました。これは終末に向けて、神主権が樹立されやすいようにするためであり、特に世界で10億人以上の信徒を保有するキリスト教は終末において中心的役割を成す宗教だということが分かります。

 また、復帰摂理の目的を成就するために人類歴史は闘争と戦争という過程を経て、悪主権を滅ぼし、善主権を復帰してきました。この内容は原理講論の後編に詳しく出てきますが、お父様がお生まれになった当時は、人類史上初の世界大戦が起こり世界の情勢が大きく変わる時代でした。そして、第二次世界大戦の結果、世界は民主主義陣営と共産主義陣営に大きく別れることになりました。民主主義陣営は神主権を、共産主義陣営はサタン主権を意味しました。共産主義がまだ大きな力を持っていた時に、お父様は声高らかに「共産主義は崩壊する」と宣言されたことがあります。有識者たちはそれを冷ややかな目で見ていましたが、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の解体など、実際に共産主義は崩壊しつつあります。こういった国際情勢を見ても、現代が終末であり、神主権が世界に広まりつつあることを実感することができます。

万物主管と終末

 最後に第三祝福は“万物主管”です。万物主管とは被造世界に対する人間の主管性を意味します。主管性には内外両面がありますが、内的主管は心情的主管、つまり宗教、哲学、倫理などによる人間の心霊復帰を意味します。外的主管とは科学の発展による主管性を意味します。現代は科学が高度に発達し、私たちも普段から文明の利器に頼り過ごしています。経済の発展、通信・交通機関の極度の発達は世界を一つにつくるための、終末的現象です。お父様が早くから日韓トンネル、ベーリング海峡トンネルを提唱されているのは、世界の人々がより近くなり、一つの家族として過ごすことができるようにするためです。

 そして家族には必ず父母がいなければいけませんし、父母がいてこそ兄弟愛が生まれます。人類が宗教を通して心霊を復帰し、高度な科学発展によって親密な関係になり、真の父母を共通の父母として受け入れた時、神様の願いである人類一家族世界が実現するのです。現代に起こっている現象はまさしく終末現象であり、その深い意味をしっかりと知っていただければと思います。

神様を親とする価値観とその影響力

 少し前の話ですが、アメリカのテレビ番組『What would you do?』(あなたならどうする?)に祝福二世が偶然登場しました。日本で言うドッキリ番組で、役者が作り出す状況に対して、人々がどのような反応を示すかを楽しむ番組です。

 白人の親子がおもちゃ屋さんで言い争いをしています。黒人の人形を買いたいとねだる娘に対して母親は、肌の色が違うという理由で許しません。その様子を見る他の客に対して、母親が同意を求める際に、その客が見せる反応を映し出していました。多くの反応は当然、外見ではなく内面の重要さを説き、母親には同意しません。

 そして、番組の最後に「しかし、この若者ほど印象的な人はいませんでした」というナレーションで祝福二世が登場します。やはり同様に、白人親子の言い争いに対して母親の意見には同意せずに、「大切なことはその人の人柄とか人格等の内面の世界だと思う。私たちは皆、神様の子女であり、その人の価値は外見ではなく中身だと思う」と答えます。そのようなやり取りが続いた後、種明かしとして番組司会者が登場します。その二世は、白人親子のやり取りが演技であったことを知り安心します。そして、こらえていた涙を見せながら次のように質問に答えます。「とても悲しいことだと思いました。人はそれぞれ神様が創ってくれた美しい存在なのに。こんな事ならこの子の面倒を僕が見てあげたいと思いました…」

 そして、司会者の「この子がこの人形を持つことの良い点は?」との質問に彼はこう答えました。「この子が、肌の色や髪の毛が黒いからではなく、神様が与えた多様性の美しさによって、この人形を好きになれる点です。国と国の間に線を引くのは私たちです。そして人と人との間にも、人種等の理由で線を引こうとします。でも僕は全ての人が兄弟姉妹だと思うのです。だから、僕から見ればあなたは親戚の叔父さんで、彼女は姉になる訳です。そんなふうに人々を愛することができるのは、私たちが一つの大きな家族だからです…

 収録後、この若者の良識に驚いた司会者がその価値観を持つに至った経緯を尋ねると、彼は“文鮮明先生の教え”によることを伝え、ご父母様を見事に証しました。

 この映像はアメリカの統一教会でも大きな反響があり、教会内外に勇気を与えました。中高生期を過ぎ青年になると社会との接点も増え、二世たちは様々な価値観に翻弄されがちです。しっかりと神様との深い因縁を結び、天を愛し、天から愛される二世たちを育てていきましょう!

※映像を教区成和学生部長が持っていますので、是非一度ご視聴下さい。

愛媛教区成和学生会

 IMG_5688②全国の兄弟姉妹のみなさん、こんにちは!私たち愛媛教区はアットホームで優しさいっぱいの家族のような成和学生を目指して活動に取り組んでいます。

 今回は、秋に行われた中和文化祭の取り組みを紹介しようと思います。愛媛はもともとエンターテイメントが苦手な子が多くて最初は10人くらいしか集まらず、何をするかも決まらなくて不安でいっぱいでした。でもいろんな努力をしていく中で、少しずつ学生会長を支えようという兄弟姉妹が増えてきて、37人の兄弟姉妹が一つにまとまりだしました。青年や父母会の皆さんにも心情的にたくさんサポートしてもらって、兄弟姉妹たちのアイデアも今までにない良いものが出てきました。特に心に残っているのは、ある青年スタッフのお姉さんが、涙ながらに私たちを思って支えてくれている父母の願いやお兄さんお姉さんの思いを伝えてくださって、それからみんなの文化が大きく変わったことです。

 そして合宿も2度行い、何度も練習を重ねました。そして四国大会では全3部門で見事優勝することができました。今までにない感動で涙が止まらなくて、発表が終わって幕が閉じる前にみんなで舞台の上で抱き合いました。こんなことは初めてでした!

 西日本大会では自叙伝を校長先生に配った時の内容をスピーチしてくれたメンバーが準優勝に輝きました。他は惜しくも入賞できませんでしたが、それ以上にこれからの愛媛が発展していけることを確信することができました。

 一年前に、なかなかみんなが一つになれないでいろんな苦労をしながらも弟妹たちのために頑張ってくださった前の学生会長、副会長を始めとするお兄さん、お姉さんがいろんな試練から逃げないで頑張ってくれたから、今年はここまで来れたということをみんなが感じています。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。