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原理講論を読もう♪㉑

 

比喩と象徴の聖句を解き明かす原理講論DOC111129

 前回では人類歴史は神の復帰摂理歴史であり、終末とは復帰摂理のクライマックスにあたり、サタン主権から解放され、神主権が樹立されていく時代であることを整理しました。それゆえノアの時代も、イエスの時代も終末であったことを再確認しました。聖書には終末に関する多くの聖句が残されていますが、そのほとんどの聖句が科学的には信じられないような天変地異が起こることを予言しているものです。代表的な例ではイエスが再臨される際に雲に乗ってこられるという聖句です。現実的には信じがたい現象ですが、既成キリスト教では実際にイエスが雲に乗って再臨されることを信じている人々もいます。原理講論では終末に関する聖句を紹介しながら、その聖句が文字通り実現するのではなく、比喩と象徴によって隠されている本当の意味を解き明かしています。

 終末論では終末に関する5つの聖句を紹介していますが、原理講論でしつこく聖句を再解釈している理由はキリスト教徒の伝道を念頭に置いているためです。真のお父様が原理原本を書かれ始めた1950年代は朝鮮戦争が起こり、民衆は言葉にできない絶望と恐怖の中で生活していました。祖国が南北に分断され戦争が起き、家族さえも敵と味方に分かれて殺しあわなければいけない現実は、人々の生きる希望と気力を奪って余りある悲劇でした。一日前までは味方と思っていた者に裏切られ、愛する人が命を落とすことが日常のように起きるような時代に、民衆に生きる光を投げかけたのがキリスト教でした。韓国ではキリスト教徒が爆発的に増加し、いたるところに教会が建てられていきました。このキリスト教の広まりも、私たちが今勉強している終末に必然的に起きる現象の一つでした。多くの信徒を獲得したキリスト教とメシアとして再臨された真のお父様が一つになれば、神様の復帰摂理は大きく進展するはずでした。そこで原理講論はより多くのキリスト教徒を伝道するために聖句の新解釈を多く載せたのです。聖書を何度も読んでいる篤実なキリスト教信徒ほど、原理講論の聖句解釈に感動し、統一教会の門を叩いたと言います。

聖句から見る終末

 それでは篤実なキリスト教徒を感動させ、統一教会まで足を運ばせたという原理講論の新解釈はどのようなものだったのか紹介したいと思います。

「主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に作り出されたものも、みな焼き尽くされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼け失せてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、偽の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」(ペテロの第二の手紙3・10-13)

 この聖句を見ると終末には天と地がみな焼き尽くされ、くずれ落ちてしまうと読み取ることができます。ここでは地上がくずれ落ちてしまうと言っていますが、他の聖句を見ると全く正反対の内容を見つけることができます。「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。」(伝統の書1・4)という聖句や「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基をさだめられた地のように建てられた。」(詩編78・69)という聖句を見ると、神様は地上をいつかくずれ去る対象として創造されたのではないということがわかります。原理的に見ても主体なる神様が永遠なる存在である以上、その対象も永遠でなければなりません。それでは天と地がくずれ去るということは何を意味しているのでしょうか。国が滅びるということは、その主権が滅びることを意味します。終末の前の天と地はサタンが主権を握っているため、天と地を滅ぼすという聖句はサタン主権を滅ぼすということを意味していることがわかります。そして新しい天と地をたてるということは、再臨主を中心とした神主権の世界を復帰するということを意味しているのです。

火の審判

 また聖句を見ると「天は燃えくずれ、天体が焼け失せてしまう」という箇所があります。聖句の中にはイエスが審判主として来られ、火をもって人類を審判すると記されている箇所があります。しかし実際にはイエスが地上で過ごされた期間の中で火を持って人々を裁いたという記述を見つけることはできません。それではこの火とは何を意味しているのでしょうか?火に関する興味深い聖句を一つ紹介しようと思います。

「舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。」(ヤコブの手紙3・5-6)

 つまり火の審判とは舌の審判だと言い換えることができます。舌とはとりもなおさず、言葉、つまり“み言”を意味するので、終末には“み言”で審判されるということがわかります。創世記を見ても、人は神の“み言”によって創造されているため、堕落した人間を再創造するために“み言”が必要になるのです。イエスが語った“み言”が2000年経った今でも人々の拠り所となっている事実や、聖人君子の残した言葉が人々の生活指針になっているのもこういった理由からなのです。そして真のお父様が90歳を超えられても一日に数時間、時には10時間を超えるほどの“み言”を語ってくださるのも、私たちに正しい道を提示するためです。このようにお父様の“み言”が何物にも代えがたいほど貴重な理由は、私たちを神様の下に導いてくれる唯一の道標だからなのです。

Category: 誌面説教②