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預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その1:荒野に呼ばわる者の声

 

洗礼者ヨハネbaptism

 前回まで、旧約の代表的なイスラエル王を見つめながら、“王であるキリスト”の姿を探ってきました。それは、福音書に描かれたイエス様の姿をいくら調べてみても、威厳をもって王の権能を現してはいないからです。なぜなら、天の父である神様が万王の王として地上に送ってくださったイエス様であったのに、33年間の地上生活において、ただの一度も王として迎えられたことはなく、人類の誰一人としてそれを認めることがなかったためでした。

 主にイエス様の公生涯を語る4つの福音書は、いずれも洗礼者ヨハネのことから始めます。マタイ福音者には次のように記されています。

 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、「悔い改めよ、天国は近づいた」。預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道筋を備えよ、その道をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。(マタイ3・1-4)

 悔い改めの洗礼を授けるために荒野に登場した洗礼者ヨハネの風貌は、人々にすぐさま預言者エリヤを思い起こさせるものでした。また、彼の誕生の時には、父ザカリヤが聖霊に満たされて預言した中で「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう」(ルカ1・76)と、その行く末を告げています。

イエス様の公生涯のはじめ

 マタイ福音書に戻ってみると、この洗礼ヨハネのところにイエス様が現れて、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けたこと。その後イエス様は荒野で40日40夜断食を終えたとき、悪魔の試みを受けそれをことごとく退けたこと。そして、洗礼ヨハネが捕らえられたことを記しています。そして、こう続きます。

 この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ4・17)

 イエス様の公生涯のはじめ、その宣教活動は、洗礼者ヨハネが荒野で叫んだ言葉と全く同じ言葉で始まります。

 イエス様の公生涯は、エルサレムの神殿にのぼり、その玉座について、王の権威で“神の国”の到来を宣布し、全国民に新しい国における守るべき天の法を公布し、幸福なる生活の基本を見せることができたわけではありません。

 洗礼ヨハネと全く同じように、荒野に下り、あらゆる悪魔の誘惑を退けながら、人々に悔い改めを呼びかけ、神の国の到来に備えることを訴える説教をなしたのです。人々のなえた心を奮い立たせ、病に蝕まれた体を癒し、天の父に心を向けなおさせることに全精力を費やすことになるのです。それは栄光の王の姿ではなく、苦難の中を歩む預言者の姿でした。

預言者エリヤ

 古来伝統的キリスト教会においては正典とされ、プロテスタントの伝統では外典として扱われていましたが、共同約聖書には『続編』として収められた中に、「シラ書(集会の書)」という巻物があります。イスラエルの知恵と伝統を教えるこの書物の結びには、「誉れ高き人々をたたえよう、我々の歴代の先祖たちを。・・・諸国の民はこの先祖たちの知恵を物語り、神の民は先祖たちをほめたたえる」(シラ44・1,15)として「先祖たちへの賛歌」が記されています。そこでは、摂理歴史の中で神様が呼び出して、神様の夢を実現するために歩んだ中心人物たちが取り上げられていきます。

 彼の言葉は松明のように燃えていた。・・・エリヤよ、あなたはその驚くべき業のゆえに、どれほどほめたたえられたことだろうか。あなたと等しく誇りうる者があろうか。…あなたは、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。確かに、わたしたちも生きるであろう。(シラ48・1-11)

 旧約聖書に記された預言者エリヤに対する尊敬と賛美の言葉は、そのまま、祭司ザカリヤがわが子の行く末を思って語った預言と重なり、洗礼者ヨハネの歩むべき使命を言い表すものとなります。

 そして、洗礼者ヨハネがその道を全うできなくなると、救い主として来られたイエス様が代わって歩まざるを得なくなった道を示すものともなりました。だから公生涯を歩まれるイエス様の姿には、洗礼者ヨハネが歩むべき預言者エリヤの生涯が重なりあってくるのです。この時はまだ、“荒野に呼ばわる者の声”としてしか語ることのできなかったイエス様の心情や如何ばかりであったかと思わざるを得ません。

Category: 誌面説教