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自然

宇宙は自然博物館

 子供たちを見ていると、おもちゃなどに対してすぐ反応します。何か不思議なものが動いているというわけです。おもちゃは何でも好きですが、動くもので直感的に感じるのは動物です。子犬だとか昆虫かなにか。子供たちは皆、飛び回る生き物や野生の動物といった動くものが好きなのです。

 なぜでしょうか。もともと人間はそうなっているのです。人間は、自然世界やこの地球の動きを見て興味を覚えるのです。それを楽しんで、それを鑑賞するところで、人間は本当に楽しみ、興味を感じるのです。

 初めは、神様の子女として誕生したアダム・エバも、神様の保護圏内で幼い頃から育てられ、高められるに従ってだんだん大きくなっていきます。そうして知能が発達するので、神様がなぜ被造世界を創ったかを知るようになり、その被造世界を通して教育されていくのです。森羅万象のすべては、人間始祖、本来の祖先となるアダム・エバが生活していけるすべてを教える教材だったのです。理想の生活をしていくために必要な標本であり博物館であったという事実を知らなければなりません。

自然に対する姿勢

 朝、目を開いて自然を見渡すと、その自然がしみじみと自分の本姓と因縁を持って新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人の世は見れば見るほど絶望と悲しみの思いがつのることを皆さんはよく知っているでしょう。本来、堕落していない本然の人間たちの住む世界の中であれば、人間の価値は見る者に悲しみを感じさせるような程度の低いものではありません。人間は、一本の草、一輪の花、一本の木と同じ程度の価値で造られたのではないのです。被造万物のいかなるものをもっても換えられない高貴な人間であり、どんなものとも比較することのできない価値をもった姿で、天の代身を務めるべき人間だったのです。

 神様の愛が宿る自然を見渡し、「世の中の王や有名な人物が持っている素晴らしい品物と比較になるものか。骨董品なんかと比較になるものか。どこかの有名な婦人が着ている豪華な衣装と比較になるものか」という心を持たなくてはなりません。

 嘆息する万物の恨みを解いてやる責任を負った皆さんは、一本の木、一本の草からも六千年前、それらをおつくりになるときの神様の心情と創造のみ業を体たいじゅつ恤しなければなりません。そういう心を持たなければなりません。

 ですから統一教会の食口たちは、道を歩いていて野の草一本見ても涙するようでなければなりません。木を抱きしめて泣くことができなければなりません。「主人を失ってどんなにさみしかったか」と。一度そうしてごらんなさい。私はたくさんの涙を味わいました。岩を抱きしめて泣いたこともあれば、風が吹くのを見て泣いたこともあります。

 自然とは何でしょうか。神様が私たちのために、為に生きる愛を持った息子や娘が生まれるとき、その愛を与える万物として、贈り物として与えた展示品です。鳥の鳴き声一つ、草一本といえども、愛する子供たちの生活を美化するために作られた作品だということです。道端に転がっている石も、子供たちが国を治める主人となることを思い、その国の装飾品として作ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、調和をきわめた和合の園をつくり、愛のために生きる世界を見てそれを相続できる夢の王子、希望の王子を育てるために創造したのです。

自然を愛し、人を愛せ

 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを皆さんは知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することのできる人は神様を愛するようになるのです。

 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。それに、人間も愛さなければなりません。人間の中でも、五色の人種すべてを愛さなければなりません。

【二世の道p40~44より抜粋編集】

Category: み言の学校