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神様との連結

一時の満足と孤立%25C5%25A9%25B1%25E2%25BA%25AF%25C8%25AF_870W0523

 世の中が自分を中心として回っていると信じ、自分だけを中心とした生活をすれば、失望ばかりを味わうだけです。世界に対抗して闘うのが“私”ならば、私はいつでも犠牲者になり、闘いに敗れるでしょう。私は、私以外の者たちより、明らかに数的に不利です。もし自分を他の人から区分し分離主義者になれば、自分を保護するために、私は斬進的に、しかしはっきりと自らを孤立させるようになります。内面の深い所から、外にいる彼らに負けるということを知っているので、自分と利己的自我を守るために、より多くの壁と、防御と保護のバリアーを張らなければならないからです。

 そうなれば、ほかの人たちが自分よりも偉大で、もっと大きく、もっと豊かに見え、彼らがもっているものに対して貪欲さを感じるようになります。彼らが持っているものを奪いたいと思い、そのあとに初めて心の安定を得て喜びを感じます。しかし、もっと豊かだったり、もっと成功したり、自分より幸福に見える別の人たちを見れば、また嫉妬し、怒り憎しみを育てます。“どうして彼らがそのように幸福になれるのか。私がこのように苦労し、熾烈な人生を生きているこの世の中で、彼らは、あまりにも簡単に生きているではないか”と言います。私は、もっとたくさんのものを願い、それでしばらくの間は豊かになり、すぐに消えてしまう喜びを享受することもできます。しかし、それは、ただ人々に見せる自尊心と優越感にすぎません。少しの喜びはすぐに消え、私は、不幸な心で一人残り、再び自分がもっているものを人のものと比較して、現在の状況に対して世の中を恨むのです。

世界と私の連結

 世の中から自分を分離することはできません。私は、すべてのものと連結しているのです。父母が生んでくれたので、私がここにいるのです。父母が一緒にいなければ、私という存在はあり得ません。太陽と月、風、雨、地を掘り起こす農夫、排泄物で地を肥やす動物などによって栄養分を供給され、成長してきました。私が生まれるまでになければならなかった数多くのものを考えてみれば、それは本当に奇跡のようなことです。生きていること自体が奇跡です。歩くことができるということも奇跡です。考えてみれば、私の存在自体が一つの奇跡なのです。

 いかなるものも私たちと分離することはできません。私たちは、過去の生きていたすべての先祖たちによる産物であり、同時に、これからの子孫たちに伝える伝統をもっています。過去と未来が私たちと離れているのではなく、今この瞬間、ここに共にあるのです。死後に私たちの肉身は土に帰り、生息する動物たちの栄養分になります。私たちの人生と自然の世界、太陽、月、宇宙などの生命は、すべて同じ一人の方から与えられたものです。

神様による保護

 私たちは、被造物の一部であり、全ての被造物もやはり私たちの一部です。私たちがそうであるように、ほかのすべての存在も、やはり神様から創造されたからです。私たちが自己中心的で、分離主義的な行動をとるとすれば、自らを分離させて孤独な人になり、絶えることのない葛藤と緊張の人生を生きるようになります。しかし、自分が神様と被造世界、すなわちすべての人間と万物とどれほど深くかかわり合っているかということを悟るようになれば、踏みつけられていた心は平安になり、その広大な関係の中で私たちは自由になります。

 神様、万物と共に一帯を成して生き続けていくようになれば、小さく制限され、世の中から完全に分離されていると感じていた、自我に対する間違った認識から抜け出すことができます。そうすれば、すべての人たち、そして被造物と親密さを感じるようになります。太陽の光と雨、植物、動物に到るまで、すべての自然から受けていないものはないという事実を知るようになるのです。私たちを守ってくれ、保護してくれる多くのものと、思いやりのある人たちによって養育されてきたことを知るようになります。神様の下の一つの家族としての人間愛を感じることができ、父母にとっての子供の存在のように、私たちがとても重要な価値を持っていることを知るようになるのです。

【天和堂p81より抜粋編集】

Category: み言の学校