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信仰生活

心が沈んでしまうとき2222

 皆さんが信仰の道を行きながらも心が沈むのは、内的な基準が下がるからです。この内的基準が下がった状態では、何をやっても満足な結果をもたらすことはできません。ですから、内的な神様の臨在点に同化する生活、一致する生活にならなければなりません。そのような観念をどのように確保するかということを考えなければなりません。

 皆さんは、自分が祈祷をしたり、精誠を尽くしたら、何ともいえない力が湧いてくるのを感じることでしょう。皆さんを超越する力が、皆さんに訪れてくるのです。それが自分の心に来てつながるのを感じるようになるのです。

困難に対する理解

 大きなことをするには、1/3は反対するのが原則です。「さあ、行こう!」と言って皆が「はい」と応じたら、何の功労になるでしょうか?反対され、胸を痛め、涙を流し、そうして峠を越えてこそ「よくやった」と言えるのであって、楽に超えたらよい気持ちがしますか?お腹がいっぱいなところへおいしいものを与えたらどうですか?「ああ、おいしい」と言うでしょうか?お腹が空いている時なら、ただの麦ご飯でもガツガツ食べながら「ああ、おいしい」と言うでしょう。そういうものなのです。

 皆さんの中にも、ある時自分も知らないうちに悲しみが込み上げてきて、わけもなく涙が滝のように流れる経験をした人がいるかも知れません。私たちはその悲しみの正体を知らなければなりません。その悲しみは自分の悲しみではありません。それは追求してみると歴史的な悲しみです。その悲しみはだれが持ってきたのかというと、神様が持ってきたものなのです。では、それはだれゆえの悲しみなのかというと、神様ではなく私たちなのです。結局は私たちを救うための悲しみなのです。それは私一人の救いではなく、国と世界の救いのためです。国がなければ私たち自身は救いを受けることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。

困難を克服する方法

 心配事と災難が訪れたからといって、気を落としてはいけません。迫害されたからといって心配してはいけません。その代わりに、自分が定義の位置から未来を受け継げるように、天運の前に世界的な運勢基盤の上で天運を受け継ごうと、自分自身を準備しなければなりません。そのことを自らはっきり知るようになれば、それ以上必要ありません。

 私たちが“環境に勝ち進もう”というとき、この言葉の中に私たちはいつも危険にさらされているという意味も入っています。いつでも危険が待ち構えているのです。

 高い山があれば、必ず谷があるのと同じく、試練があれば必ずその試練に見合った福が訪ねてくるのです。神様が、善が訪ねてくるのです。冬が過ぎれば、冬の峠を越えれば春はやって来るのです。同じなのです。その次には夏が来ます。谷は夏と同じです。それが発展の表れだということを知らなければなりません。

 困難なことにぶつかるときに皆さんが知らなければならないのは、これから訪ねてくる福を受けることのできる準備、天の福を受けて人類に譲り渡すことのできる自分のすべての準備をしなければならないことです。器を用意しなければならないのです。福を受け止めることのできる器を作らなければなりません。

困難に対する先生の姿

 先生は北韓共産党の監獄に入って2年8か月の間、重労働をしました。何の労働だったかというと、肥料工場での仕事でした。硫酸アンモニア工場から粉がコンベアーに積まれて工場のある一か所に落とされるのですが、それをはかりで量ってかますにぎっしり入れて貨車に積み込む仕事です。

<<中略>>

 先生はそういう中で人間の深いところまで研究しました。食べ物を慕うほどに、自分が神様を慕っているだろうか?先生は日々比較し、照らし合わせながら過ごしてきました。「何より神様を愛さなければならない。このご飯一食を食べるためにここへ来たのではない。万人の蕩減の道を開拓するために来たのだ」と考えました。自分の行動に対し、不信するような態度は絶対取りませんでした。

 皆さんにいくら悔しく無念なことがあっても、先生の悔しく無念な思いには及びません。また、レバレンド・ムーンがいくら悔しく悲痛だとしても、神様の悔しく悲痛な思いには及びません。だから耐えるのです。そこで心情的な絆が結ばれるのです。悲しみの裏側に神様の心情的歴史の道が広がることを知らなければなりません。

【二世の道p234より抜粋】

Category: み言の学校