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信仰生活

信仰の意味ナイジェリア大会①20110718写真加工済み

 皆さんは愛の根を探さなければなりません。すなわち、神様の愛を探さなければならないのです。パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である(コリントⅠ13/13)」と言いました。皆さん、信仰とはなんですか?“信じる”という漢字から人偏を取ると“言”が残ります。信仰とは結局、人の言葉を意味します。このとき、言葉とは人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出てこないので、言葉を言うときにはすでに相対基準ができているのです。また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。

 このような根本はどこから来たのでしょうか?愛による因縁から出てきたのです。でも、その因縁は自分勝手に結べるわけではありません。この因縁を結べる力というものがあり、目的とする基準がお互いに一致できたので結べたということです。

 私たちのいう信仰とは何かというと、真なる人の人格を中心として、その人格を追求していくことです。また、そのような人格を追求しながら生きていくのが信仰生活です。

 “信”という字を見ると、人に言葉の言、そして“仰”も人偏があります。これも人を抜きにしていません。人を中心とするのではなく、尊敬する対象を中心とすることです。そういう位置から私たちが真のみ言を追求していき、そのみ言を通して一つの方向を成立させるためのものが信仰生活なのです。

 信仰生活について考えるとき、その対象はすでに自分ではなく神様なのです。あくまでも神様に対していく道です。すなわち、主体と対象の関係が神様と自分の間に結ばれ、主体から生じる事実が対象に至るようになり、対象によっておこることが主体にも関係されなければならないということです。こういう関係が結ばれなければ、み言とともに成される自分自身になることはできません。

信仰の目的とは何か

 信仰者に一番必要なものは、明確な目標です。「私は必ずこの道を行く」という確実な目標です。この目標があやふやになると信仰者の生活は崩れてしまい、いくら決意をして覚悟を決めても目的とは何らの関係もなくなってしまうのです。目的もなく、100回覚悟を決めたとしても、どうなるというのですか?目的を明確にさせて覚悟を決めるのなら、目標の前に一歩でも近づけるけれども、曖昧な目標ではどんなに決意しても少しも役に立ちません。

 永遠な生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが信仰なのです。永遠な生命と永遠な愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが合わさり、しかも二つの喜びではなく一つの喜びとして感じることができる最終点を見出すのが信仰の道です。そのため、信仰生活をする私たちの個体がどれほど前進的な愛と生命力を持てるかが、何よりも重要な問題とならざるをえないのです。信仰生活とは総合的な生活です。

信仰生活の第一条

 宗教は、神様と人間との関係を結んでくれるものです。その関係を何でもって結ぶのでしょう?愛で結ぶのです。その愛は、主人と僕の因縁でもなく、国と国民の因縁で結ぶのでもありません。神様を自分の父とする父子の因縁で結ぶ因縁なのです。「神様は私の父である。神様はどうしても私を愛さずにはいられない」と言える信仰は素晴らしい信仰です。

 「信仰者は絶対的に神様を信じよ!絶対的に神様の前に帰依せよ!神様を中心として完全に立て!」というのが信仰の第一条です。どんな宗教であれ、これが信仰者たちに第一条となっていることを知らなければなりません。その次、二番目は何でしょうか?「原理、神様の立てた法と一つになれ、法と完全に一つになれ」ということです。

 最高の基準に対する中心性を認め、その責任を果たすことが最高の善なのです。宇宙の最高峰は神様です。それで神様のためにすべてを捧げなさいというのです。それが信仰の第一条です。神様の勝利とは、全宇宙が含まれます。ですから、皆さんは神様のためなら盲目的であってもよいから、ありったけの力を出して苦労しなさいというのです。

 信仰者たちはどのように生きていかなければならないのでしょうか?変わってしまう理念の条件を持ちながら生活するのではありません。変わらない不変の理念を回復するわけですが、その理念は別々に離れたものではなく、自分の生活圏内において全体が一つの理念で連結されているという事実を知ったうえで、自ら神様と関係した生活をしていかなければなりません。

【二世の道p212より抜粋】

Category: み言の学校