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王であるキリスト その2 : ダビデ王③

ダビデの歌

 

「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。・・・わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」(詩篇51・1,8-10)

 

旧約聖書に収められた詩篇は別名「ダビデ」と呼ばれることがありますが、竪琴を奏でて神様を讃美した歌人に相応しい愛称です。150篇の中には“ダビデの歌”とタイトルに記されたものも多くあります。実際にダビデが詠んだ歌かどうかは定かではありません。しかし、その歌には、ダビデの生涯の歩みや、紆余曲折の人生で彼が味わった様々な思いが反映されているとみることができます。

 

悔い折れる王

 

ある時、ダビデは忠実な家臣ウリヤの妻バテシバを見初めて妻とするため、ウリヤを戦場に送って殺させました。神様はダビデの行為をとがめ、預言者ナタンを王のもとに遣わしました。預言者は次のような例え話を語るのです。

 

「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。・・・ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」(サムエル下12・1-6)

 

富んだ人の行いに激しく憤ったダビデでしたが、ナタンから「あなたがその人です」と指摘され、悔い折れるばかりでした。ダビデは神様の裁きによる死を免れましたが、バテシバがダビデのために生んだ最初の子はすぐに病気になり、間もなく亡くなりました。

 

悔い改めの詩篇と呼ばれる第51篇をみると、ダビデのこのできごとが思い起こされ、断食しながら地に伏して祈る王の姿が浮かんでくるのです。自らの心を清く創り変えてくださいと切望するところに、神様の恩恵なくしては、生きることのできない罪人の痛切な祈りがあります。人は、神様の心痛を我がこととして感じた時に、初めて悔い折れるのです。

 

聖書は、神様のみ心にかなうことを喜びとし、そこから外れた痛みを感じて、直ちに悔い改める姿を人々にあからさまに見せてくれます。イスラエルの民は、この王を通して神様の前に立つ者の姿勢を教えられてきたのです。

 

躍り上がる神の僕

 

これに先立ち、ダビデがサウル王の後を継いで全イスラエルの王として立てられた時、すぐさまペリシテとの戦いを収拾させなければなりませんでした。ダビデは神様の命ずるままに出陣し、その指示通りに戦って勝利を収めます。

 

かつてペリシテ人に奪われてのち、再び戻ってきた“神の箱”が、二十年間キリアテ・ヤリムのアビナダブの家に安置されていました。ペリシテに勝利したダビデは、“神の箱”をダビデの町エルサレムまで担ぎ上りたいと思いました。都に幕屋を据えて“神の箱”を安置することにより、この国に“神の祝福”がもたらされるのだと確信していたからです。

 

“神の箱”がダビデの町エルサレムに入る時「ダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った」(サムエル記下6・14-15)と言います。

 

二枚の石板を納めた“神の箱”を迎えて、あまりの嬉しさに、自ら先頭に立って踊りながら上って行く王の姿がありました。神様のみ言に耳を傾け、それを守ることを喜びとするイスラエルの指導者像が浮び上がるできごとです。神様が人と共にいることを最高の喜びと感じる幼子のごとき神の僕の姿が、この王には見出すことができるのです。

 

しかし、王の心根が理解できなかったサウル王の娘、王妃ミカルは、ダビデの振る舞いは王の威厳を欠くものと蔑みました。そこでダビデ王は答えます。「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。」(サムエル記下6・21)

 

民の前には強き指導者であっても、神様の前にはどこまでも頭を垂れて従順に仕える僕としているのです。イスラエルに神様が願う王の開拓者は、人々が来るべきメシヤ王に侍る姿勢をも示そうとしてきたように思えます。

Category: 誌面説教