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幸福(文亨進様のみ言)

 

幸福を見出す人生

 すべての人間は何を追求していますか?私たちは皆、共通点があります。私たちは全く同じものを追求しています。その内容とは何でしょうか?私たちは原理の最初の文章、最初の真理からそれを発見できます。

 それは、正に“不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている”のです。それは、状況、年齢、立場に関係なく、人として共通する内容です。私たちは等しく、苦痛と苦しみを避けたく思い、幸福を求めています。

 ところが、あまりにも多くの人々が、幸福が何であるか知らないまま、それを追求するようになります。真の父母様のみ言によれば、幸福には二種類があると、簡潔に表現されています。外的幸福と、内的幸福です。

 外的幸福とは、皆、知っているように、私たちが毎日の生活で忙しく生きながら、より安全な状況、より経済的に余裕のある状況、より有名な状況、もう少しうまくいった状況などであり、多くの人々が物質、車、家、または、お金を追求するようになります。

 ところで、現代の私たちがこの世に生まれるとき、大部分の人々は病院で生まれます。そして最後の瞬間、私たちはまた病院に入院して死ぬことになります。そして、霊界に行きます。

 とても多くの人々がその最後の瞬間に、自分の一生を再び観るようになります。そのことに関する研究があります。死ぬ直前に、自分が生きてきた人生が映画のように現れるというのです。人々はゆっくり、その状況を再び体験するかのように観るようになります。それを見れば、“自分はどのように生きたか?自分は何をして生きたか?”をいつも考えるようになります。

 私たちが世の中に生まれ落ちた瞬間から、非常に幼い時から、私たちは自分でも気付かないうちに幸福を追求しました。お母さんのお乳を求めるその小さなことから始まって、ずっと私たちは幸福を求め続けています。それなのに、とても多くの人々が最後の瞬間でも“自分は幸福を見い出せなかった”と言います。世の中の人々のほとんど大部分です。

 私たちがそのようなレベルでこの世に生まれ、死んでいくとき、また全く同じ水準で逝くようになります。“自分は何をして生きたか?何を追求して生きたか?”と言いながら逝くようになります。“自分はまだ幸福とは何か分からない”と、一生それを追求したのに、根本的内容を発見することができません。

 ところが、真の父母様は内的幸福があるとおっしゃいます。これは、外的幸福とは少し異なります。

 外的幸福は、例えばある物を買い、ある美しい服を買ったりして、その服を初めて着るときは、すごくうれしく感じます。「わあ!本当にすてきだ。かわいい」と言いますが、いくつもの季節を経て、数年が過ぎれば、その服と別れて、また新しい服を求めなければならなくなります。このような内容を見れば、外的幸福は、臨時的に幸福と快楽を与えることはできますが、永遠の幸福を与えることはできないというのです。

内的幸福の追求

 真の父母様がおっしゃる内的幸福は、どこから生じるのでしょうか?私は誰なのか?私はこの全宇宙と何か関係があるのか?この宇宙を創造されたお方がいらっしゃるなら、私はそのお方と何が関係があるのか?私は全宇宙と天運の流れと何か関係があるのか?そして神様がいらっしゃるならば、神様がお送りになった息子、メシヤ、再臨主と私たちに何か関係があるのか?どのように自分の人生を送らなければならないのか?

 このような内容を求めて私たちが生きていくことになり、私たちは幸せではないだろうと考えますが、真の父母様に栄光と幸福を帰するとき、違う次元の幸福を得るようになります。そのお方のみ言に従い、良い行動をし、人々を助け、そのお方の立場を高め、保護し、栄光と喜びを帰するようになれば、私たちは死ぬとき、その多くの内容を違う次元の世界に持っていくことができます。

 私たちがもしこの次元に入っていき、内的幸福を感じるならば、本当に大きな幸福を感じることができます。

 何日か過ぎて、また少し下がってくることがあるかもしれません。しかし、私がまた降りるとしても、スタートした次元には下りてきません。そして、再び幸福を捧げ、再びより大きなことをすれば、また上がって下りてきますが、出発点は再び上がります。

 ですから、この世に生まれた時と、この世を去る時とでは、私は異なる人です。

 お父様は「私が発展し、私を創造された主、神様に喜びを帰したとすれば、それよりも大きな幸福はないよ」とおっしゃいます。これが正に内的幸福だというのです。

【天一国食口礼拝2010年11月28日】

Category: み言の学校