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王であるキリスト その2 : ダビデ王

 

ダビデ王

ダビデ王

柔和な王がおいでになる
 「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」(マタイ21・5)
 十字架の死を迎える一週間前、イエス様はロバに乗ってエルサレムに入城しました。福音書は「預言者によって言われたことが、成就するためである」(マタイ21・4) といいます。ゼカリヤが預言した通りの姿(ゼカリヤ9・9) で入城するイエス様です。この時、群衆は、棕櫚の葉やオリーブの枝を手に持って、喚起の声を上げて歓迎しています。彼らはこう叫びました。
 「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」(マタイ21・9)
 しかし、そのわずか数日後に、彼らは同じお方に向かって「神を冒涜する者」「死に当たる者」と非難し、「十字架につけよ」と叫ぶことになります。イエス様は不幸にも、十字架の道を歩まざるを得なかったけれども、一方で、イスラエルの人々は、この時もなおダビデのような偉大な王が統治する日を待ち望んでいたのです。ダビデは、善き王として彼らの心に深く刻まれていたからです。
心を見て選ばれる神様

 初代イスラエルの王サウルが神様の命令を守れず、その使命を果たすことができなくなったとき、密かに神様が選んだ新たな王がダビデでした。士師サムエルは、神様の命に従って香油を携え、ベツレヘムに住むエッサイのところに行きました。サムエルはその息子たちの中から神様が王に選ばれた人物を探します。
 長男を一目見たサムエルは、この人こそ神が選ばれた者だと思いましたが、神様はこう言います。
 「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16・7)
 そのように諭されたサムエルは、順に息子たちを見ていきますが、どうもぴんときません。家にいた息子たち全員を見たのに確証が得られません。父親のエッサイに確かめると、もう一人羊を追って野に出ている末っ子がいることがわかりました。それがダビデでした。
 ダビデがサムエルの前に出るやいなや、神様の命が下りダビデに油が注がれ、彼の上に主の霊が激しく臨むようになります。
 神様は心を見られるといいますが、どのような心なのでしょうか。神様が喜ぶ心とはどのようなものなのでしょうか。末っ子だけに純粋で幼子の心が残っていたということでもなさそうです。神様が掴み取ったダビデの“ 心” は、次のようなできごとを通して顕わになってきます。
主が共におられる

 ダビデが油を注がれたといっても、まだイスラエルはサウルが治めていました。そのイスラエルがペリシテとの戦いで劣勢を強いられていた時、軍隊に加わった兄たちに食糧を届けにきた少年ダビデは、目の前の光景に愕然とします。
 イスラエルの軍勢を前に、強力なペリシテ軍が威嚇しているのです。こともあろうに、ペリシテの巨人ゴリアテが前面に進み出て、自分と戦って勝つことのできる勇者はイスラエルにはいないのかと侮辱しています。しかもその言葉にイスラエル軍は皆気づいているのです。
 それに対して義憤に燃える少年ダビデは、自ら名乗り出て、巨人ゴリアテとの一騎打ちに挑みます。羊飼いの彼にとっては、巨人も荒野の獣に比べれば恐れるに値しません。「わたしは万軍の主の名…神の名によって、おまえに立ち向かう。…イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。」(サムエル上17・45-46) と向かって行くのです。
 鎧かぶと兜を身につけることもできないほど幼い少年でありながら、何千何万の兵士に勝って、神様を思い、神様が共におられる国であるとの誇りを持っていました。天を思い、民を思い、国を思う心は誰よりも大きかったのです。
 神様はダビデの“ 愛天、愛人、愛国” の心を見られて、彼を王として立てられたのではないでしょうか。その心があまりにも強かったので、彼は、たった一人でゴリアテに挑み、小さな石ころの一撃で倒してしまいました。その勇気に鼓舞されたイスラエル全軍は、逃げるペリシテ軍を追撃し、勝利を収めました。「主はわたしの牧者であって、わたしは乏しいことがない。」(詩篇23・1)
 ダビデの歌として知られる詩篇です。少年の時抱いていた彼の心は生涯変わることがなかったことをうかがわせます。主が共におられる。その主を愛し、主が愛する民を愛し、主が愛する国を愛する、これこそイスラエルの王の心。それが、来るべきお方に流れこんでいくのです。

Category: 誌面説教