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全世界に行って福音を宣べ伝えよ

 

宣教のはじまり

 復活されたイエス様に許された弟子たちは、真実の愛によって悔い改めました。さらに聖霊の火を受けて生まれ変わることによって、全く新しい宣教の動きが始まったのです。

 イエス様は弟子たちに、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16・15)と言われ「すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいていっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28・19-20)と命じられました。この命令を、自らの生涯をかけて実践すべきビジョンとして受け止めた弟子たちは、すぐさま行動を起こしました。

 彼らが世界の人々に宣べ伝えた内容は、こうでした。「イエスはキリスト(メシヤ)であった。この方は、神のひとり子として、人類の救いのために地上に来られたが、人々から捨てられ、苦しみを受けて、十字架につけられて殺された。しかし、復活して永遠の命に至る道を開かれた。」これが彼らの人生をかけて守るべき真理でした。やがて短く“使徒信条”としてまとめられ、キリスト教徒を導く道標となったのです。

イエス様を指し示すイメージ

 アジア、アフリカ、ローマへと福音を携えて出て行った弟子たちは、イエス様が誰であったのか、わたしたちはその方とどのような関わりを持つべきかを説き明かしていきます。ユダヤ人にはユダヤ人の言葉で、ギリシヤ人にはギリシヤ人の言葉で、それぞれの受ける器に合わせて、様々なイメージを持ちながら復活の主を伝え歩くのです。

 新約聖書では、時に“ユダヤ人の王”そして、時に“預言者”として、時に“大祭司”としてイエス様のことが示されていきます。マタイ福音書には、東方の博士らが「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」と呼び(マタイ2・2)、ヨハネ福音書では、ローマ総督のピラトが「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いた罪状書きを十字架の上にかけさせたとあります(ヨハネ19・19)。ルカ福音書では、イエス様が「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」と言われるとき、旧約時代の偉大な預言者エリヤの姿とご自身を重ねて語っています(ルカ4・24)。ヘブル人への手紙では、サレム(エルサレム)の王でアブラハムを迎えて祝福した大祭司メルキゼデクになぞらえながら永遠の大祭司としてイエス像を提示しています。

旧約の完成

 弟子たちが宣べ伝えるイエス様のイメージが時と場所によって多様性を帯びているとしても、源は一つであり、普遍です。

 「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。」(ルカ24・44)

 ルカ福音書が記された、復活されたイエス様のことばの中に出てくる“モーセの律法と預言書と詩編”とは、私たちが旧約聖書と呼ぶユダヤ人の聖書全体を指します。ユダヤ人の伝統では、創世記から申命記までの5つの書物は“律法”と呼ばれ、それに続く、ヨシュア記以降のイスラエル建国と王国の歴史を綴った書物は、四大預言者十二小預言者と共に“預言者”の範疇に入れられます。そして、詩篇を代表とする上記以外の讃美、知恵、教訓など諸々の文学形態をとる巻物を“諸書”と呼んでいます。

 イエス様は、神様の摂理歴史の観点から、これら旧約聖書が救い主を迎えるための準備を整えるために書かれていることを解き明かしています。そして、迎えた主は、神様が創造のときたてられた人間のモデルを完成した実体であることを示したかったのでしょう。イエス様は、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と自信を持って言うことのできる方でした。人類始祖アダムとエバの堕落によって失われた完成人間のモデルを神様はようやく見出したのだ、ということに目をむけさせたかったに違いありません。

 しかし、みすぼらしい身なりをして、食べて寝て、野山を駆け巡りながら、不思議な業を為すといっても、親兄弟から理解されない人物を、誰がメシヤだと信じるでしょうか。誰もが疑い、生活をともにした弟子たちも皆躓いてしまいました。

 ところが、最も悲惨な死の道を通って肉体を脱いだ時、はじめてイエス様の真実の姿が見えてきたのです。怨讐を許し、裏切りものを生みかえる真の愛の方だと実感しました。ユダヤ人が期待したような、イスラエル一国の富と繁栄をもたらす王ではなかったけれど、神の真実の愛と生命を与える、生命の主、永遠の王であったと気付いたのです。

Category: 誌面説教