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十字架上のイエス様

 

キリストと共に死に、キリストと共に生きる2349

 神様を愛する者たちは、新約聖書の中に救い主の姿を見出して、その方を慕い仰ぎ、その方の一挙手一投足を倣いたいと思うものです。新約時代を貫くキリスト教精神の真髄がそこにあります。すなわち、万物の創造主、人類の救い主であられる神様を愛するがゆえに、そのひとり子イエス・キリストと共に死に、共に生きようとすることです。そのため、信仰者はイエス・キリストの受難を思い起こし祈るのです。

 神のみ旨の最前線に立つ人々を迫害していたパウロは、復活されたイエス様によって霊の目が開かれ、産みかえられて“使徒”として召されました。彼はこう言います。

 「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためなのである。」(ローマ人への手紙6・4)

 お父様はかつてこう祈られました。

 「十字架の正しい意味を知ることができない者は、十字架の救いを受けることができず、十字架に向かうときのイエス様の心情を体恤できない者は、真理の立場に立つことができないということを知っておりますので、お父様、この時間集まった息子・娘たちを哀れにお思いください。」(「キリストの心情を体恤させてください」1957年6月30日)

ゴルゴタのイエス様

 では、ゴルゴタの丘の上で、イエス様に起こった出来事を見てみましょう。

 イエス様はゲッセマネで捕らえられた後、大祭司カヤパの邸に連れ込まれ、地下の洞窟に一晩吊るされました。翌朝、ローマ総督ピラトの下に引き出され、裁判を受けます。ローマの法律では罪を見出せなかったピラトは、イエス様を憎む大祭司、律法学者らに扇動された群衆の圧力に屈して、イエス様を十字架で処刑することを許してしまいました。

 十字架を担い、石畳を歩かされてゴルゴタの丘に着いた時、イエス様は引き倒され、十字架の木に押し付けられて、両手両足に釘を打たれて磔にされます。立ち会ったローマ兵たちは、歩かされるイエス様に紫の衣を着せ、いばらの冠を押しかぶせて侮辱してきました。十字架上でも、イエス様の衣を奪い合い、貴いメシヤを裸にして、息絶えるまで放置したのです。傍らには、左右に二人の盗賊が同様に磔の刑に処せられていました。

 受難の場面を目の当たりにする時に、神様が世を救うために送って下さったひとり子が人々から拒絶され、苦痛を受けておられる姿が目に飛び込んできます。その苦痛は、肉体的なものもさることながら、霊的格闘によるところがさらに大きかったのです。

イエス様の“渇き”

 十字架の傍らを通りかかった者たちがイエス様を見て罵るのです。「もし神の子なら、自分を救え、そして十字架からおりてこい」(マタイ27・40)これに同調して、祭司長、律法学者、長老たちも嘲笑し、一緒に十字架につけられた強盗どもまでも罵ったといいます。(同27・44)ルカ福音書には、左の盗賊の罵りの言葉まで記されています。その言葉は毒矢のようにイエス様の心情に突き刺さったことでしょう。それは、誘惑の山で断食を終えたイエス様に言い寄るサタンのささやきと同じです。

 そんな人々を抱えて「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と執り成すのです。天の父である神様と、神の子として創造された人類の関係を結び直すために来られたイエス様であったので、どのような誘惑や試練の中にあっても、天宙の中心であり宇宙の根本である父子関係を切ることはできないのです。

 イエス様は息を引き取られる前、「わたしは、かわく」と言われました。(ヨハネ19・28)神様の4000年の復帰の心情を携えてこられたイエス様は、天の父と同様にわが子を抱いて親として存分に愛したい衝動を覚えたことでしょう。しかし、33年の生涯を歩まれても、愛する子を見出すことができず、愛を交わす相対も得られないために、真の愛の“渇き”を感じられたのではないでしょうか。そのような心の痛みを抱えながらも、神様のみ旨の前には、絶対信仰、絶対愛、絶対従順を貫いていかれたイエス様でした。それ故に、復活の道が開かれたのです。

Category: 家庭連合ニュース, 誌面説教