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イエス様の遺言

 

福音の書の主題

 四つの福音書は等しく、イエス様の公生涯におけることばと行いを記し、クライマックスに主の受難と死を語ります。そして、最後にその方が復活したと告げることで、「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(使徒行伝2・36)という使徒たちの宣教メッセージにつながっていくのです。

 「木にかけられた者は神に呪われた者」(申命記21・22)。それは律法(トーラー)が記すように、たとえば神を冒涜するなどの、死にあたる罪を犯した者のたどるべき末路と考えられてきました。だから、十字架で処刑されたイエス様がどうしてメシヤと言えるのかという疑問を、ユダヤ人なら誰しもが抱いたことでしょう。

 この疑問に対して福音書は、イザヤ預言者が描いた「苦難の僕」のイメージを重ねながらイエス様の死とその使命に対する理解を示そうとします。「彼を砕くことは主のみ旨」(イザヤ53・10)であり「彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53・12)のです。それゆえに福音書は「見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。侮られて人に捨てられた」(イザヤ53・2-3)と、イエス様の様子を克明に描き出します。

最後の晩餐のイエス様の姿

 ヨハネ福音書においては、受難と死に直面するイエス様の姿と共に、「肉体となったみ言」として、イエス様が最後の晩餐の場面で語る説教と祈りに長くページを割いています。

 「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」(ヨハネ13・1)

 覚悟して祭りに臨んだイエス様は、弟子たちに、これまで語り聞かせてきたみ言の核心を告げようと、切実な心情で語ります。まさにイエス様の遺言です。三年間共に歩んできた12弟子であったけれども、そのうちの一人は、銀貨30枚で売り渡そうとしているし、「あなたのために命を捨てる」とまで言ったペテロでさえ数時間後には裏切ってしまうのです。そのような、不安な弟子たちを包み込むように、彼らの足を洗い、弟子たちの心をつなぎとめながら、やっとの思いで語ることのできた内容です。

 それはちょうど、モーセが、40年の荒野の生活の終わりに、山の上から自らは入ることを許されなかった約束の地を眺めながら、イスラエルの子らに最期の言葉を語り聞かせる姿と重なります。

モーセの遺言

 モーセが神様から受け取ったみ言は、律法として重んじられ、ユダヤ人の聖書の中心的位置を占めています。

 律法の中で最も重要な教えは「主なる神を愛せよ」ということです。申命記六章では、この戒めを寝てもさめても覚えて語れといわれます。手につけ、目の間において、家の入り口の柱と門にも書き記して覚えよというほどに、大切にしました。そのようにして心に刻んでいくことがイスラエル選民の重要な務めとなったのです。この伝統は、約束の地に入った後に人々が生命を長らえるためであり、新しい文化創建の中心軸となるものでした。

 モーセが最期に遺したものは、「きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。…この言葉はあなたに、はなはだ近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」(申命記30・11、14)、そのような時が必ず来るという希望のことばでもありました。

イエスの遺言

 この希望の実体として来られたイエス様は、人間がどのように神様を愛したらいいのかを教えるため、神のひとり子として神様の心情を携えて来られました。

 イエス様が「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われる時、それは、天の父を知り、その心情に通じる道であることを示しています。遺言の核心部分はこう続きます。「わたしを見た者は、父を見たのである。…わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」(ヨハネ14・9、11)

 律法の完成は愛の完成です。これまで神様を“主”として愛し続けてきたイスラエル民族は、イエス様によって神と父子関係を結び、神様を父母として愛し、子として生きることができるようになるはずでした。今は死の道を行かざるを得ないけれども、再び戻ってきて聖霊と共に、人類をわが子として抱くことのできる道を開く約束だけを遺していくイエス様でした。

Category: 誌面説教