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ヨハネ福音書が伝えるイエス様

 

共観福音書と第四福音書

 新約聖書のはじめには四つの福音書が収められています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、イエス様の公生涯におけることばと行い、受難・死・復活について語っていくのですが、同じ伝承に基づいているようで、共通のエピソードを多く含んでいます。それでこの三つは「共観福音書」と呼ばれています。「第四福音書」と言われるヨハネ福音書は、他の三つと趣を異にし、イエス様の言葉や祈りも比較的長く記録しています。

 福音書が四つあるのは、それぞれが別々の真理や教えを語ろうとしているのではなく、イエス様という一人のお方に対してそれぞれの角度で光をあて、浮かび上がった一つの真理を、再び四方に向かって告げ知らせようとしているかのようです。古来、黙示録4章7節に記された四つの生き物、すなわち、獅子、雄牛、人間、鷲は、四つの福音書を象徴すると言われます。どれがどの福音書を象徴するのかは諸説あるようですが、一般的には獅子はマタイ、雄牛はルカ、人間はマルコ、鷲はヨハネだと考えられています。

神の子の到来を告げ知らせる

 ヨハネ福音書は鷲の如く空高く舞い上がり、天の高みからイエス様の姿を見つめているようにみえます。「初めに言があった。言は神と共になった。言は神であった。」(ヨハネ1・1)冒頭の一節は、天地創造のときにまでさかのぼり、神様が万物を創造される以前からその心に抱いておられた理想の実体が、ついに地上に現れたイエス様であったという感動を伝えます。

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(同1・14)洗礼ヨハネが証すべき内容を、同じ名前を持つイエス様の愛する弟子が改めて全世界に向かって叫んでいるかのように、「めぐみとまことは、イエス・キリストをとおしてきた」(同1・17)と宣言します。その方によって人々が「神の子」となる恵みが与えられた、というのです。

七つのしるしと七つの自己紹介

 ヨハネ福音書は、人々が「イエスは神の子メシアであると信じるため」「信じてイエスの名により命を受けるため」(同20・31)にイエス様のなさった七つの奇跡を「しるし」として七つ列挙します。それは、①水をブドウ酒に変えたカナの婚礼での奇跡(同2・1-12)、②役人の子をいやしたカペナウムの奇跡(同4・43-54)、③安息日に病人を癒したベテスダの池での奇跡(同5・1-18)、④五つのパンと二匹の魚で五千人の腹を満たしたテベリア湖畔での奇跡(同6・1-15)、⑤湖の上を歩いて渡った奇跡(同6・16-21)、⑥生まれつきの盲人を癒した奇跡(同9・1-41)、⑦ラザロをよみがえらせた奇跡(同11・1-45)。

 数々の奇跡を見せながらご自身が何者であるかを人々に示そうとするイエス様ですが、その周りに群がるのはパンを食べて満腹した者たちや、もっとしるしを見せてほしいという者たちでした。その人々の心は、もっとすごいしるしでも見せてくれるなら信じることができるのに、という思いにとらわれています。

 こうした人々にイエス様は、七つのたとえで自己紹介しています。①わたしは命のパンである。(同6・35、48)②わたしは世の光である。(同8・12)③わたしは羊の門である。(同10・7)わたしは門である。(同10・9)④わたしはよい羊飼である。(同10・11)⑤わたしはよみがえりであり、命である。(同11・25)⑥わたしは道であり、真理であり、命である。(同14・6)⑦わたしはまことのぶどうの木。(同15・1)

 イエス様はこのように七つのしるしを見せ、ご自身が何者であるかを語ったけれども、まだ比喩やたとえでしか語ることができなかったことに気づかなければなりません。イエス様は、旧約のみ言葉の核心的内容を教え、父母である神様の、四千年間恨を抱き悲しんでこられたやるせない心情を明らかにするために来られました。また、無形の父である神様を代身する実体の父として、人類に対して「息子よ、娘よ」と呼んで、天の父の愛を示したかったお方です。それにもかかわらず、地上にあるときには、あからさまに語ることはできませんでした。悲しいイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(同16・12)とだけ言い残したのです。

Category: 誌面説教