Subscribe via RSS Feed

神様の心情を秘めた聖書の物語

 

たとえで話されるイエス様放蕩息子のたとえ

 再びこられる主は「アダム以降6000年間積み重ねてきた神様の悔しい心と、恨めしい心を一つひとつ明らかにし、先祖の恨を明らかにし、従い尊ぶべき人物たちが裏切ったことを明らかにし、曲折を残した過去の傷の歴史路程を再び反復することがないようになさるはずです。」1960年に語られたお父様のみ言です。

 聖書は神様の手紙です。親の心に秘められた思いを伝えるために、子であるはずの人間に語りかけるメッセージを含んでいます。しかし、サタンの讒訴を避けるために、比喩やたとえを多く用いて語りました。そのようにしながら、神様を「わたしの父だ」ということのできる真の息子・娘を待ち続けてこられたのが神様でした。

 2000年前に地上に来られた神様のひとり子イエス様は、まさにそのような方でした。4000年間隠されてきた神様の心情を自らの心情として、人々に解き明かし、神様こそが人類の真の父母であることを宣布するために来られました。しかしイエス様を誰一人として理解する者がいないので、天のお父様と同様、語りたくても語ることができず、言うにいえない心情を抱えて人々の前に立たざるを得ず、身もだえしながら過ごされた生涯でした。

 イエス様の言葉と行いを伝える福音書を開いてみても、イエス様の悲しい姿が浮かび上がってきます。そこには、比喩やたとえでしか話すことのできないイエス様しかおりません。

「放蕩息子の帰還」の物語

 福音書にみられるたとえ話の中でも、最もよく知られた美しいたとえ話は、「放蕩息子の帰還」の物語でしょう。それはおよそ次のような物語です。

 父親から財産を譲り受けた二人の兄弟のうち弟は、家を離れ遠く異郷の地で放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしてしまいました。そこに飢饉が押し寄せ食べるものにも困り、豚のえさでも食べたいと思うほどになります。そんな惨めな状態に陥ってはじめて、彼は、暖かい父の家のことを思い起こし、使用人にでも雇ってもらえれば死ななくてすむだろうと考えました。心を入れ替え、ともかくも父のもとに帰ってきます。親に会わす顔もなく、子と呼ばれる資格もないと思っていた弟でしたが、父親はといえば、息子が帰ってくるのをみて自分から駆け寄り、「死んでいた息子が生き返った」と、着物や豪華な食事まで用意して喜びを表しました。一方、弟がいなくなってからもずっと父のもとを離れず、父に仕え、堅実に働いてきた兄はおもしろくありません。己の好き勝手に遊んで、財産を食いつぶしてしまった弟を、なぜ父親は贅沢な食事を振る舞い喜ぶのか理解できないと不平を漏らすのですが、父は「あなたはいつもわたしと一緒にいるし、わたしのものは全部あなたのものだ」とたしなめられるのです。

 99匹の羊をおいて迷った一匹の羊を探す羊飼いのたとえや、失った一枚の銀貨を探し出して喜びを表す婦人の話に続く「放蕩息子の帰還」の物語は、神の「いつくしみの啓示」だと、あるキリスト教指導者は理解しました。またユダヤ教徒らもとらえてきたように神様は人類始祖の堕落以来、わが子である人間を捜し求めて来られたお方です。

人の幸福は神様との父子の関係

 イエス様は、4000年間、声なき声で「わが子よ」と叫び続けてきた神様の復帰の心情を、メシヤを待ち続けた人々にあからさまに語りたかったでしょう。その思いを物語に託して、「死んでいたのに生き返った、喜び祝うのは当たり前だ」と、この物語の父親に語らせます。

 律法学者たちを前に語られたこの物語は、人間とは何か、人間の真の幸福は何かも考えさせます。父のもとを離れた弟は、身を持ち崩し、家畜のえさを食べたいと思うほどに、自らの尊厳を見失ってしまいます。堕落によって失ってしまった人間の尊厳、神様の愛する息子、娘であるという尊厳は、断ち切ってしまった親との関係を回復し、親の懐に戻ることによって取り戻されるのだといわんばかりです。

 人間の真の幸福は、「神様と人類の父子関係を取り戻すことから始まる」。天地万物を創造され、人類を救援すべく摂理をなさってこられた神様こそわたしの父だと自信をもって言うことのできるイエス様でした。だから父母なる神様に立ち返り、神様が創造された人間の価値を発揮できるようにと訴えておられるのです。

Category: 誌面説教