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原理講論を読もう♪②

 

神様とはどんなお方?

 皆さんもよくご存知の通り原理講論は第一章創造原理から始まります。創造原理はどういう目的で書かれたのか、それは冒頭でこう結論付けられています。「人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。・・・ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造したもうた神がいかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである」(P41) この文章を読み解くと、私たちが抱える全ての疑問や問題はそれらの第一原因である神を理解すれば全て解決できるということになります。その前提にはこの世界の全ての森羅万象は創造主である神の属性の枠を超えることはないという理論があり、それゆえに創造原理では神という存在を理論的に、そして客観的に紹介しています。創造原理の第一節「神の二性性相と被造世界」は出だしから「無形にいます神の神性を・・・」(P42)と神について語り始めます。このことから分かるように創造原理では神の存在有無について語ってはいません。それは前回も書いたとおり、原理講論という書物がキリスト教徒を対象に書かれた書物だからです。彼らにとって神の存在とは疑問の余地の入らないくらい明らかであり、あえて原理講論の中で神の存在有無について語る必要がなかったのです。原理講論では扱っていませんが、ここでは神の存在の有無について少し考えてみたいと思います。

神の存在証明

<ニュートンによる証明>

 ニュートンは友人に神を証明すると言ってから、一生懸命ある模型を作ったといいます。その模型は太陽系の模型で、太陽を中心に惑星が円を描きながらも決して衝突することのない精巧で、それでいて神秘的なものでした。ニュートンの家に招かれた無神論者の友人は一目見てこの太陽系の模型に魅了されました。しばし模型に見入っていた友人は尊敬の念をこめてニュートンに質問したといいます。「この模型を作るのにどれだけ苦労したんだ?一体何週間かかったんだい?」その質問にニュートンは素っ気無く「別に。それは偶然できたんだ。」とだけ答えました。友人は顔を真っ赤にして反論しました。「そんなはずはない。どんなに運が良くてもこれだけ正確に意図をもった模型を作れるはずが無い。お前は嘘をついている」そこでニュートンは友人ににっこり笑いかけました「確かにこの模型は偶然作られたのではなく僕が意図して作ったものだ。でも考えてごらんよ。こんな小さな太陽系の模型すら偶然作られるはずないのに、これより数万倍も大きな太陽系が創造主抜きで偶然に成り立つと思うのかい?」その日以来ニュートンの友人は神様の存在を否定しなくなったといいます。

<カントによる証明>

 他にも哲学者として有名なカントは神の存在を証明するためにいくつかの理論を打ち立てています。存在する全てのものが存在目的を持っていることから導き出された目的論的存在証明。全人類がすべからく共有している善悪の概念、良心の働きから導き出された道徳論的存在証明。全ての現象の背後には必ず原因があり、全ての現象の原因を突き詰めていくと究極的原因に到達せざるを得ないことから導き出された原因論的存在証明などがあります。このように人類史に名を残した神学者や哲学者が神の存在を表現しようと苦心してきました。しかし生きた神を理論的に説明しようとすればするほど、皮肉なことにとても無機質で近寄り難い神を語ることとなりました。「存在という属性を最大に持つ方」「超自然的究極的原因」といった表現は人々を神に近づけるどころか、より遠ざける要因でしかありませんでした。

神様と人間

 立場を逆にして考えてみましょう。私たち人間が被造物ならばその創造主がいるかどうかを疑問に思い、悩んでいる姿は神様から見ればどれほどお笑い種であり、悲しいことでしょうか。それは人間が腕時計を作ったにもかかわらず、腕時計が自らを設計し、作った存在がいるかどうか、人間とはどういう存在かを一生懸命悩んでいるに等しいからです。私たちは腕時計に定義されるよりも、私たち自身が自らを語るほうがよほど正確で納得できるに決まっているからです。さて、それでは神自身は自分のことをどう語っているのでしょうか。聖書には古代に神が自らの名を語っている場面がこう表現されています。出エジプト記三章でモーセはホレブ山上で神に出会い、イスラエル民族を解放するように使命を伝えられます。心配事の多かったモーセは神の言葉をどのように伝えたらよいかわからず、神に神自身の名前を尋ねます。すると神は「私は有って有る者」だと自らを称します。有って有る者、英語に直すと「I am that I am」となります。有る、存在するということに一点の疑問すら持たせないこの自己紹介は私たち人間に創造主たる神の存在を疑うことのないよう釘をさしているかのようです。神は普段私たちがするように自らを「神」とは名乗らず「有る者」だと言ったのは、全ての存在の根本的存在、存在する要素を最大限有している者としての人間への宣布だったのかもしれません。

tenchisouzou

Category: 誌面説教②