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Archive for 12月, 2011

城FE

神様が6000年間待ちに待った子

 全国の中高生の皆さんこんにちは!皆さんは、夢を持っていますか?私には、夢があります。それは学校教育の中に神様を迎えることです。この夢は、初めは二世が通える学校を作りたい、二世教育をしたいというものでした。しかし、全世界にいる人々すべて神の子であり兄弟姉妹なので、学校を作るではなく学校そのものを変えたいと思うようになりました。まだまだ、模索中ですが、必ず成したいと思っています。

 私が、このように思うようになったきっかけは二つありました。一つは、私が2007年に高3で祝福を受けた時のことです。この時はお父様の米寿の記念式典もありました。祝福式の次の日、天正宮の朝の米寿式典に参加させていただくことができました。お父様が多く語られたみ言の中で「私に続くものが、まだいない・・・任せらせるものがいない」とポツリと言われた言葉がとても衝撃的で心を打ちました。通訳を介してでしたし、正確な言葉かは分かりませんが私にはそう聞こえました。お父様との距離は遠く、お顔もはっきりと見えていたわけではないのに、お父様が泣かれているのが分かりました。その時、私はこのままではいけない。お父様を安心させることができる人物になりたいと強く思いました。そして、お父様に任せてもらえるような私たちになりたいと思いました。この体験は、私のものの見方や考え方を大きく変えました。真のご父母様が地上に生きておられて、お会いできる機会は本当に尊いと感じ、今でも、ご父母様に会えるなら地球の裏側でも飛んでいきたい思いです。

 二つ目は、CARPの新人研という40日修練会に参加している時です。琵琶湖の湖畔で祈り決意した内容を琵琶湖に叫んでいたときです。この祈りの中で、神様の願いや悲しみを強く感じ、涙が止まらなくなる体験をしました。この時感じた神様の悲しみは、二世に対するものでした。神の子として生まれてきた私たちが、神様を忘れて生活してしまっている現状に対しての悲しみでした。私が小中高生の時に共に教会で学生会などをして歩んできた二世の中にも、高校を卒業すると全く連絡が取れなくなってしまった兄弟姉妹がいたり、祝福ではなく恋愛し結婚した人もいます。そのことを神様がとても悲しまれていることを強く感じ、同時に私は母の言葉を思い出しました。母は私にこのようなことを話してくれたことがあります。私には、兄が二人と妹が一人います。兄が二人生まれた後、女の子も欲しいと思っていたそうです。三番目の赤ちゃんを身ごもった時に、夢にお母様が出てこられて「次は女の子ですよ。」と言われたそうです。また、母は赤ちゃんがお腹に入るたびに“この子は、神様が6000年の間待ちにまった神の子なんだ。”と、とても尊く思い感動し感謝したと話してくれました。この話を聞いたとき、心から神の子として神様に喜びを返す歩みをしていきたいと思いました。

全力で夢を探してください

 私たち二世はこの地上に生まれた、それだけで神様やお父さん、お母さんをとても喜ばせることができる存在であり、行動や発言でも喜ばせることができます。しかし、裏を返せば一番悲しませることもできてしまう存在なのだと私は感じました。神の子として神の血統で生まれた尊さに気付かず、神様を知らないふりをすることでどれほどの悲しみを与えてしまうか、その怖さに気付いてほしいと思います。

 私たちは、尊い神様の血統を受け継いだ神の子です。この血統を続かせ、広げていくことができるのも私たちだけです。その尊い使命を喜んで成していく私たちになりたいと思ったので、“まずは教育だ!”と思い、このような夢を抱いたのです。

 中高生の皆さん!もう一度聞きますが、夢を持っていますか?中高生期には、中高生の時にしか体験できないことがたくさんあります。学生会や部活動、ウリノレやスポーツなどで完全投入することの気持ちよさ、楽しさを感じることや、夢に向かって、または夢を夢中で探す面白さなどがあると思います。

 神様は、私たち一人ひとりに神様の、たった一つしかない輝く個性を与えて下さっています。この世界70億の人類に同じ個性を持った人はいません。その個性を活かした夢が持てたらどれほど素晴らしいでしょうか。その『神様が与えて下さった輝く個性を発見する!』という宿題がみなさんに出されています。人生で最高の宿題ですね。

 夢がありますか?と聞かれたとき「ありません。」と答えるのではなく「今、全力で探しています!」と答えられるみなさんになってほしいと思います。

第49回『真の万物の日』記念全国小・中・高 作文コンクール

IMG_6307② 今年も『ムーンワールド』誌上で第49回『真の万物の日』記念全国小・中・高作文コンクールが開催されました。今年は前年の約2000点を上回る2761点の作文が集まり、どの文章も神様の心情を表現する純粋な感性に満ち溢れていました。

 また、今回の作文の中には東日本大震災の内容に触れた作品が多く、被災者への思いやりや、震災を乗り越えていこうという前向きな気持ちの作品や、直接関係がなくても、励ましや思いやりの気持ちがよく表現さた作品が多くありました。

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その3:エリシャ①

 

主の昇天

 イエス様は、復活されてからの40日間、たびたび弟子たちに現れて教えを述べました。尊い主を裏切り、十字架に追いやった弟子たちでしたが、一人ひとりをゆるし、励まし、もう一度使命に立ち返らせていきます。イスカリオテのユダを除く11名の弟子たちは、イエス様の愛によって、その御許に戻りました。天にあげられる日を迎えたイエス様は、オリーブ山上でこう告げます。

 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒行伝1・4-5)

 聖霊が降るその時には、弟子たちは力を得て全世界の証人となる、とイエス様は語り、「彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒行伝1・9)と聖書は伝えます。

 神のひとり子であるイエス様は、み旨を完成するために来られました。33年の生涯を通じて、神様の理想である真の家庭を立て、神様と人類が親子として幸福に生きることのできる世界を創建することのみを目指して歩まれました。しかし、誰一人イエス様のことを理解する者がいませんでした。それゆえ、み旨を完成、完結できないまま地上を離れる時には、地上に身代わりしてみ旨を継続する人を求めたのです。

 それがペテロであり、十二使徒たちでした。彼らは、聖霊によって生まれ変わってからは、惨めな裏切り者として生きるのではなく、イエス様の証人として生涯を捧げるのでした。

使命の継承

 イエス様と使徒たちの歩みは、旧約の預言者たちの歩みと重なります。一人の預言者が使命を完結できないときには、後継者を選び使命を継承しながらみ旨は前進するのです。

 かつてアハブ王がイスラエル王国を治めていたとき、神様はその国の行く末を憂いて預言者エリヤを召命しました。そのエリヤが、使命を果たすのが困難になると、後継者にエリシャを選ぶよう神様はエリヤに命じます。

 ホレブの山に難を逃れたエリヤが“神の声”を聞いた後、山を降りて後継者としたエリシャは、その後、数年間エリヤの傍に仕えて行動を共にしています。

 神から選ばれた人といえども、後継指名後、直ちに願われている使命を果たせるとは限りません。エリシャは、エリヤに仕える間、エリヤのことばに熱心に耳を傾け、行いに注目し、彼の動機、発想、そして心情を学びとっていこうとしたのではないでしょうか。師と共に生活することを通して、師のすべてを相続していこうとするのです。

 たとえば、かつて律法を神様から授かったモーセは、律法の権威として民の前に立ちました。その後継者として後の律法学者から崇められる人物がヨシュアです。なぜなら、彼こそ、いかなる時にもモーセのそばを離れず、生活を共にしながら、モーセの神様に対する姿勢と民に対する思いを肌身に感じながら受け止めてきたからです。

 さて、いよいよエリヤが地上を離れようとするとき、エリシャは、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」(列王紀下2・9)と願いました。それが叶い、エリシャは多くの奇跡をもって、神様の存在を人々に知らせ、創造主にしてイスラエルの救い主である唯一の神様に立ち返るよう呼びかけていくことになります。

後継者エリシャ

 「誉れ高き人々をたたえよう、我々の歴代の先祖たちを」(シラ書44・1)  と記すシラ書は、預言者エリシャの人生とイスラエル民族の行く末を次のように要約して、記憶に留めています。

 「エリヤが旋風の中に姿を隠したとき、エリシャはエリヤの霊に満たされた。彼は生涯、どんな支配者にも動ずることなく、だれからも力で抑えつけられることはなかった。彼にとって手に余ることは何もなく、死後もその体は預言の力を失わなかった。彼は生きている間、不思議な業を行い、死後もなお驚くべき業を行った。これらすべてにもかかわらず、民は悔い改めず、罪から離れることはなかった。彼らはついに祖国から連れ去られ、地の至るところに散らされた。後に残されたのは、少数の民とダビデの家の支配者だけであった。中には、神の御旨を行う者もいたが、罪に罪を重ねた者もいた。」(シラ書48・12-15)

 イエス様においても、モーセにとってのヨシュア、エリヤにとってのエリシャのような人物が必要でした。メシヤとしての権能を現すためには、預言者の如くに歩まれ、地上を離れる前に後継者を立ててでも土台を築く必要に迫られていたのです。

原理講論を読もう♪㉑

 

比喩と象徴の聖句を解き明かす原理講論DOC111129

 前回では人類歴史は神の復帰摂理歴史であり、終末とは復帰摂理のクライマックスにあたり、サタン主権から解放され、神主権が樹立されていく時代であることを整理しました。それゆえノアの時代も、イエスの時代も終末であったことを再確認しました。聖書には終末に関する多くの聖句が残されていますが、そのほとんどの聖句が科学的には信じられないような天変地異が起こることを予言しているものです。代表的な例ではイエスが再臨される際に雲に乗ってこられるという聖句です。現実的には信じがたい現象ですが、既成キリスト教では実際にイエスが雲に乗って再臨されることを信じている人々もいます。原理講論では終末に関する聖句を紹介しながら、その聖句が文字通り実現するのではなく、比喩と象徴によって隠されている本当の意味を解き明かしています。

 終末論では終末に関する5つの聖句を紹介していますが、原理講論でしつこく聖句を再解釈している理由はキリスト教徒の伝道を念頭に置いているためです。真のお父様が原理原本を書かれ始めた1950年代は朝鮮戦争が起こり、民衆は言葉にできない絶望と恐怖の中で生活していました。祖国が南北に分断され戦争が起き、家族さえも敵と味方に分かれて殺しあわなければいけない現実は、人々の生きる希望と気力を奪って余りある悲劇でした。一日前までは味方と思っていた者に裏切られ、愛する人が命を落とすことが日常のように起きるような時代に、民衆に生きる光を投げかけたのがキリスト教でした。韓国ではキリスト教徒が爆発的に増加し、いたるところに教会が建てられていきました。このキリスト教の広まりも、私たちが今勉強している終末に必然的に起きる現象の一つでした。多くの信徒を獲得したキリスト教とメシアとして再臨された真のお父様が一つになれば、神様の復帰摂理は大きく進展するはずでした。そこで原理講論はより多くのキリスト教徒を伝道するために聖句の新解釈を多く載せたのです。聖書を何度も読んでいる篤実なキリスト教信徒ほど、原理講論の聖句解釈に感動し、統一教会の門を叩いたと言います。

聖句から見る終末

 それでは篤実なキリスト教徒を感動させ、統一教会まで足を運ばせたという原理講論の新解釈はどのようなものだったのか紹介したいと思います。

「主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に作り出されたものも、みな焼き尽くされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼け失せてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、偽の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」(ペテロの第二の手紙3・10-13)

 この聖句を見ると終末には天と地がみな焼き尽くされ、くずれ落ちてしまうと読み取ることができます。ここでは地上がくずれ落ちてしまうと言っていますが、他の聖句を見ると全く正反対の内容を見つけることができます。「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。」(伝統の書1・4)という聖句や「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基をさだめられた地のように建てられた。」(詩編78・69)という聖句を見ると、神様は地上をいつかくずれ去る対象として創造されたのではないということがわかります。原理的に見ても主体なる神様が永遠なる存在である以上、その対象も永遠でなければなりません。それでは天と地がくずれ去るということは何を意味しているのでしょうか。国が滅びるということは、その主権が滅びることを意味します。終末の前の天と地はサタンが主権を握っているため、天と地を滅ぼすという聖句はサタン主権を滅ぼすということを意味していることがわかります。そして新しい天と地をたてるということは、再臨主を中心とした神主権の世界を復帰するということを意味しているのです。

火の審判

 また聖句を見ると「天は燃えくずれ、天体が焼け失せてしまう」という箇所があります。聖句の中にはイエスが審判主として来られ、火をもって人類を審判すると記されている箇所があります。しかし実際にはイエスが地上で過ごされた期間の中で火を持って人々を裁いたという記述を見つけることはできません。それではこの火とは何を意味しているのでしょうか?火に関する興味深い聖句を一つ紹介しようと思います。

「舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。」(ヤコブの手紙3・5-6)

 つまり火の審判とは舌の審判だと言い換えることができます。舌とはとりもなおさず、言葉、つまり“み言”を意味するので、終末には“み言”で審判されるということがわかります。創世記を見ても、人は神の“み言”によって創造されているため、堕落した人間を再創造するために“み言”が必要になるのです。イエスが語った“み言”が2000年経った今でも人々の拠り所となっている事実や、聖人君子の残した言葉が人々の生活指針になっているのもこういった理由からなのです。そして真のお父様が90歳を超えられても一日に数時間、時には10時間を超えるほどの“み言”を語ってくださるのも、私たちに正しい道を提示するためです。このようにお父様の“み言”が何物にも代えがたいほど貴重な理由は、私たちを神様の下に導いてくれる唯一の道標だからなのです。

岩手教区成和学生会

被災地菜の花プロジェクト②全国の兄弟姉妹の皆さん、こんにちは!

 岩手県は四国4県の面積とほぼ同じくらいの大きい県です。教会が盛岡教会、盛岡南教会、花巻教会、一関教会の4つあります。岩手県はかつては偉人王国と呼ばれていました。総理大臣を5人も排出し、他に、宮沢賢治、石川啄木など、歴史上の有名人がたくさん暮らしていた風土の素晴らしい県です。最近では、平泉が世界文化遺産に登録されました。

 3.11の大震災では、岩手県も大きな被害を受け、夏季修練会では、成和学生たちが大槌町と陸前高田市にボランティアに行きました。大槌町では、津波で押し寄せた瓦礫を取り除いた後の河原に、花を植えるプロジェクトに参加しました。また、陸前高田市では宅地に押し寄せた瓦礫や泥を取り除く作業をしました。ボランティアには全国からたくさんの方が参加していて、被災地を代表して感謝の気持ちでいっぱいになりました。為に生きることを学んでいる私たちより、為に生きている方がたくさんいました。多くの方が、長期の休みをとって参加し、泊るところも休むところもままならないような状況でも、進んで被災地の復興のために役立ちたいと一心に取り組んでいました。

 中和文化祭のテーマを決める時には教区の中心メンバーを集め話し合いをもちました。学生たちの意見からこの時の体験を伝えたいと全員一致し、被災地のボランティアについてのテーマに決まりました。しかし最初に書いたように本州で一番広い県です。皆がそろって練習するのも大変です。教区本部に集まろうとすると、3~4時間かかる子もいて、普段の練習が困難になるのです。そこで一工夫、場面ごとにパート分けをして、各教会で取組みました。

 中心メンバーで気合を入れて、まず人集めから始め、練習を開始しました。そのかいあってか、昨年18名での参加でしたが、今年は55名で参加できました。

 住む場所は離れていても、小学生のころから教区合同の夏季冬季セミナー等で培った二世の絆がこのように実を結んできています。これからも、広い県内に広がる二世たちの心情を束ねて岩手成和学生部がんばっていきます。

J r . S T F 卒業生集会

J r . S T F 卒業生集会が1 0 月2 9 日( 土)、東京にある希苑教会にて4 5 名の卒業生とF E が集まっておこなわれました。1 1 月1 2 日( 土)、大阪教会においても4 0 名の卒業生たちが集まり、関西圏のJ r . S T F 卒業生集会がおこなわれました。
食事をしながら一人ずつ近況報告や、証し、J r . S T F プログラムの近況報告、というような内容で進行していきました。久々に会う同期の間に話題は尽きず、短い時間であったにもかかわらずとても濃い時間を送ることができました。

 

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