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Archive for 10月, 2011

喜びと悲しみ(文亨進様のみ言)

◆大震災が起こった時に東北から宮崎台修練所に避難してきた二世たちに語られた亨進様のみ言を紹介します。

弱い心と戦ってください

 私は、私のお兄さんが霊界に行ったとき、心の中に、炎のように熱い怒りが込み上げてくるのを感じました。しかしそれは特別なことではありません。私たちは、自分が感じている苦しみが最もひどいものだと感じやすいのですが、しかしそれは全世界のどんな人でも愛する人を失ったときに、同じように感じる痛みなのです。

 全ての感情は、「もうあまりにも希望がない」という方向にだけ向かおうとするでしょう。それが普通です。悲しく感じたいのです。そのように感じたら、皆さんが悪人であるということではありません。しかし、そこにとどまっていては誰も皆さんのことを助けてくれません。そして、同じような体験をしてきた、隣にいる人に希望を与えてあげることもできないでしょう。

 自分の感情が絶望的な方を選びたくなってしまうという心とよく闘って、勝利しなければいけません。勝利することは難しいでしょう。それは大丈夫です。でも、そこにとどまってはいけません。

喜びも悲しみも永遠ではない

 この世界のすべてのものは永遠ではありません。喜び、うれしいという気持ちも永遠ではありません。悲しみも永遠ではないのです。感情というのはいつも変わります。

 もしあなたにある朝、エックスボックス(ゲーム機)のプレゼントが届いたら、気分はどうですか?うれしいなと思って箱から出して、ワーイワーイと喜んでいたら、手が滑って落っこちて壊れてしまった、よく見たら保証書がついていなかった。そうしたらあなたの気持ちはどうなりますか?まだうれしいですか?腹が立ちますか?

 一日の生活の中でも感情は上がったり下がったり、うれしかったり悲しかったりと動き回ります。感情というのはいつも同じではありません。永遠なる感情というものはありません。今皆さんが悲しんでいたとしても、その悲しみは永遠に続くわけではありません。今とてもうれしいといっても、そのうれしさは永遠に続くわけではないでしょう。今怒っているとしても、それも永遠ではありません。

良い瞬間を写真で撮る

 皆さんの好きな食べ物は何ですか?ピザですか?おなかが空いていると、ピザは最高ですよね。一切れ食べたらすごくおいしいですね。二切れもおいしいですね。四切れくらいまではおいしいですね。でも十切れ目くらいには「うーん」となってしまいますね。二十切れくらいになると、ゲップが出てきます。それと同じです。私が感じた喜びをずっと維持しようとしてやっていくと、ピザと同じことで、ある日それを吐き出すようになってしまいます。

 喜ぶということよりもっと重要なことは、感謝することです。感謝というのは、その良い瞬間を写真で撮って残すようなものです。愚かな人は、うれしいことがあったとき、さっきのピザのように「もっとくれ、もっとくれ」とうれしさだけを追求しようとします。賢い人は、ピザを食べる機会があったら、「ああ、ありがとうございます」。そして一切れか二切れ食べたら自分としては十分なので、横にいる人、弟、妹、兄弟姉妹に分けてあげようとします。このように行動する人が賢い人ですね。

信仰と希望を失わないこと 

 どんな感情が起こってきたとしても、それが永遠ではないということを覚えてください。そして、今生きているという事実を忘れないでください。今や皆さんの命は皆さんだけのものではありません。もともと生まれたときから皆さんのものではないのです。私たちの人生は、たくさんの人と連結されています。全ての人の人生はお互いにつながっています。私の人生は私だけの人生ではないのです。

 よい感情が起きた時に、感謝して、心の写真を撮るのです。悪い感情がやって来た時に、永遠ではないのだと思い起こすことで、それを克服して乗り越えていくことができます。

 お互いに助け合いながら、時にはお父さん、お母さんもくたびれてしまうので、激励してあげてください。皆さんもいろいろな心配事があると思いますが、ご両親はもっと大きな心配事を抱えています。励ましてあげてください。一番大切なことは、信仰を失わないことです。希望を失わないことです。希望がなければ、信じることはできません。信仰がなければ愛を感じることができません。

【TODAY’S WORLD Japan3月号より抜粋・編集】

夢と計画

大きな夢を持て16

 青少年ならば、青少年の夢があるのです。希望があるのです。私たちの夢は、右手で神様をつかみ、左手で世界をつかんで生きていくことです。それは素晴らしいことです。

 若い人たちが夢を持つのに、人間だけの夢を持ってはいけません。人間は移り変わってゆくものです。思想を通じて移り変わっていくようになっているのです。

 皆さんは、大きな夢を持たなくてはなりません。現実は困難ですが、未来への夢を持って、現実を未来のことと思って生きている人は、天の人になれます。神様が記憶する人になるということを知らなければなりません。これは今だけで終わるものではなく、未来に通じる喜びだということを知るべきです。

 では、楽な仕事をしながら、将来を夢見るのですか、困難で複雑な仕事をしながら将来を夢見るのですか?どちらが価値がありますか?結果がよく、もっと幸福なのです。そういう人たちは、さぼったりするでしょうか?粘り強く10年でも20年でも行くでしょうか?上がったり下がったり、気まぐれにいくでしょうか?

自分の適性を早期発見せよ

 最も恐ろしいのは何ですか?好きですることです。神様も、好きでするところには占領されてしまうのです。聖書を見れば、“常に喜びなさい”という聖句がありますが、全てそれについて語った言葉なのです。神様を占領したいでしょう?

 世界的に有名な人になるにはどうしたらいいでしょうか?自分は世界的に有名になるのだと、決めつけておいて欲を張るような人は、絶対にそうなれません。福を受けることができません。一つの責任を持ったならば、幼いころから好きでするのです。夜も、昼も…。10代、20代、30代、50代、一生の間、ひたすら好きでやり続けた人は、時間をそれだけ投入したから成功するというのです。そのようになれば、すべてのことが成されるのです。

 それゆえ皆さんは、幼いときから自分が好きなことを早く選択して、一生の間、それを好きで努力し続ければ、世界的人物になれるということです。それで文先生は今日まで統一教会の責任者となり、創始者となったのは何でしょうか?神様のみ旨、神様の心情においては、誰よりもそれを愛し、幼いころから今に至るまで、荒波にもまれようが死の峠を越えようが、変わることなく愛しながら進んでみると、今日の文先生となっていたのです。ほかには何もありません。倒れて疲れて、困難で、こんなことは夢にも考えられませんでした。死ぬことがあっても、考える余裕がなかったのです。ですから、働けば休みなく発展するのですね。それゆえ、「先生は鉄筋みたいな男だ」こんな言葉をよく聞きました。これは皆間違っています。私は、手を付けた仕事は本当に喜んでやるのです。誰よりも好きでやるのです。それが先立つだけであって、他のことはありません。

 それゆえ、先生が何かするのを見れば、そのために生まれてきた人のように、他のことはすべて…。農村で何か始めるにしても、そのために生まれてきた人のようにやるのです。ですから、若い人たちも、私にはかないません。精神姿勢がこうですから、かなわないのです。理論的に先を行っています。仕事をするとき、「早く終わって帰ろう」こうではありません。「ああ、終わらなければいいのに」と喜びながら仕事すれば、疲れるでしょうか?

 もう皆さんは成功の秘訣が分かりましたね。新しい分野が分かったのです。皆さんの顔を見れば、喜んでいる顔なのか、仕方なしにやる顔なのか、直ちにわかります。喜んでしたことは、どんなことでも忘れません。

計画を立てよ

 自分の一生は一度しかありません。何となく出発して、行き当たりばったり式に、どうにかこうにか生きるようになっていません。計画を立てなければなりません。

 青少年期は、人生において最も貴い時代です。目的を立てる決心ができるのが、この時代です。それゆえ、青少年期は、人生の分岐点です。それで18歳を前後として一生の計画を立てなくてはなりません。

 この時期は、人生における交差路のような時期です。この交差路でしっかりと悟って、どのように行くのかが重要です。もっとも重要なことは、少年期、壮年期、老年期を一貫して無難に行くことができるのか、ということです。

【二世の道 p118~121より抜粋・編集】

心の成長と時期

シュタイナー教育では、0~7歳の時期に“善”に向かう意思(意)が成長し、8~14歳の時期に“美”に向かう感情(情)が成長し、15~21歳の時期に“真”に向かう思考(知)が成長すると言われています。私たちは個性完成した姿として、心の三機能である知情意のバランスが取れた人格者を目指しますが、確かに成長の段階におけるタイミングがあるように感じます。

 

1.   良心の呵責を感じさせ、善悪をしっかりと教える

幼少期には親の関心が子女への一番の良薬です。親に褒められたい一心で、子女は一生懸命に物事に取り組みます。ところが、当然幼い時期は自己中心でもあるので、わがままな言動も目立ちます。その際に、親の正しい叱り方がポイントになります。それは、良心の呵責を感じる叱り方です。叱るときの原則として、怒っているときには叱ってはいけません。怒りに任せて子女の存在を否定してはいけません。必ず子女の言動に対してのみ叱り、良心の呵責を感じるようにさせます。逆に、褒めるときには言動もそうですが、子女の存在そのものに対して褒めてあげて下さい。「良い成績を取ったね」よりも「やはりあなたは素晴らしい子だ」、「自慢の子女だ」と。この時期に良心を大きく成長させ、同時にたくさんの良心の呵責も感じさせながら、善悪の基準を明確にしていきます。

 

2.   本当に美しいものに触れさせる

小学生から中学生にかけて、以前にも増して多感になり、美的感覚も鋭くなります。この時期はとにかく、美しい自然に触れさせ、美しい音楽を聴かせ、美しい人生を学ばせ、美しい心を成長させて下さい。親子での山登りや自然探索を通して、豊かな心を育む時間を持つのも良いでしょう。聖歌や、心落ち着く優雅な音楽が家の中で流れているのも良いです。また、偉人の伝記や映画・書籍等で、神様や人類のために生涯を捧げた人の人生に触れる機会を多く設けて下さい。この時期に見た映画、読んだ本、聴いた音楽、触れた人は、大きくなっても心の中に強く残っているものです。サタン的な文化が蔓延している今の時代だからこそ、家庭や教会でもより一層注意を払う必要があるようです。

 

3.   み言の探究、原理の真理性に感銘する体験を積む

中学生ぐらいまでは難しかった原理やみ言も、高校生ぐらいになると理解できるようになってきます。中学生の延長で考えていると、子女の知的欲求を満たせない場合もあります。特にこの時期になると、価値観が固まり始める時期でもあるので、原理に対する確信を持たせる絶好の機会です。修練会等を通して、原理やみ言に感動する体験を多く積ませることと同時に、親子の会話の中でもみ言の素晴らしさを伝えられたら良いです。

第4回ピースジュニアユースカップ開催

IMG_6208-2② 8月27日埼玉県児玉郡にある鉄南グラウンドにおいて、第4回ピースジュニアユースカップが開催されました。関東圏や新潟、長野から、全12チーム、100人の選手と50人のスタッフ、観客が集まりました。

 開会式に今井部長から「皆さんは神の子なのか、サタンの子なのか」と問いかけられながら神の子としての自覚を持って始まりました。天候にも恵まれ、集まった選手一人ひとりが“サッカーを通して神様を喜ばせる成和学生となろう!”というスローガンを成すために全力で走りました。まだまだ発展途上ではある大会ですが、一人ひとりが神様を喜ばせるという情熱を持って参加することでさらに発展することのできる大会であることを感じました。

・優  勝 : 新宿ブルーサンダージュニアユース
・準優勝 : 新潟ジャスティスジュニアユース
・3   位 : 松本M-STFジュニアユース

二世であることを誇って

富田FE

 全国の成和学生の皆さんお元気さまです。

 突然ですが、皆さんは二世ということに対して誇りを持っていますか。二世として生まれてきたことに対して感謝していますか。おそらく最初から喜んで二世であることを誇ってきた人は一人もいないのではないかと思います。私も二世という立場に葛藤したことが何度もありました。しかし、あることを通して自分が二世であるということを誇りたい、感謝したいと思うようになったのです。今回はその話を皆さんにしたいと思います。

良心の祈りと神の導き

 私は6000双家庭の長男として生まれました。そのころ両親は二人とも教会の仕事をしており、その関係で私は生まれてから今まで引越しを17回経験しました。小学校の時などは、一年経ったら引っ越すということも多々あり、一から友達を作らなければならないという環境は、小学生の私にとってとても大変な環境でした。しかし両親が神様のために本当に苦労して仕事をしていると知っていたので、どこにこのモヤモヤをぶつけてよいか分からずにいたことを覚えています。

 “二世でなく、普通の家庭に生まれていれば、こんな気持ちにならず、もっと楽しく過ごせていたのではないか”と思ったこともありました。そう思うと学校に行くのも嫌になって、辛いことから逃げていくようになっていきました。

 そんなある晩、ふと目が覚めた私は、両親が涙を流して祈っている姿を見たのです。もしかしたら夢だったかも知れませんが、今もその姿は私の心の中に強く残っています。その祈りの内容は私のことであり、神様に「私たちの足りなさゆえに、あなたの子女が苦労しています…。本当に…申し訳ありません。」というような内容でした。その姿を見たときに私は強い衝撃と大きな愛を感じ涙が止まりませんでした。それと同時に神様の姿とはまさに、このような姿なのだと実感しました。不足な私を責めるのではなく、そうなってしまったのは自分のせいだとして責任を感じるのが親であり、神様であると思ったのです。このできごとをきっかけに私は強く親孝行をしたいと憂ようになりました。二世として両親の苦労を背負っていきたい、両親を心から喜ばせていきたいと決意したのです。

 そこからは導かれるように、進路などが決まり、今に至ります。本当に神様の導きとしか思えないようなことがたくさんあり、そうなった背後には両親の精誠があったのだと実感しています。

神の国を築ける天の勇士となろう

 二世として生まれたことで私は、一世の、両親の、そして神様・ご父母様の精誠を実感することができました。二世として生まれたことで、神様・ご父母様を心から証したいと思う孝の心情が強くなりました。二世として生まれたことで、たくさんの苦労もありましたが、そこに全て意味があり、乗り越えたところには必ず神様の心情があるのだと実感できました。

 そういったことを通して二世として生まれたことを誇りたいし、感謝したいと思うようになったのです。

 私たち二世は両親の、神様の精誠の塊です。みなさんの両親も絶対に涙を流しながら、皆さんのために祈りを捧げていると思います。だからこそ、よく親孝行をしてほしいですし、親の精誠を証できるような皆さんになって欲しいと思います。そのためにも多くのことに挑戦して下さい。勉強、部活、教会活動なんでもいいですが、とにかく一生懸命に挑戦してみて下さい。そして修練会などたくさんの訓練を通して強い二世になってください。皆さん一人ひとりが強い二世になれば、2013年1月13日以降、二世が活躍する時代で、必ず神様を証することができるリーダーになります。そして皆さんの姿を通して、カイン圏の人たちが感動しますし、三世・四世が私たちの精誠を受け継いでいくようになるのです。私たちの歩みは決して私たちだけのものではなく、未来に繋がっていく歩みになっています。私たち二世を中心に世界を神様の国にしていくのです。ワクワクしませんか。だからこそ皆さんには中高生のときから、自分が二世であることを誇って歩んでいって欲しいです。私もまだ訓練の途中なので、お互いに強い二世を目指し、高めあいながら神様の国を築ける天の勇士となっていきましょう。皆さんと共に歩めることを楽しみに私も頑張ります!

 ありがとうございました。

 

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その2:エリヤ①

 

変容の山c19b1a797282fb15ce6499769d251e1e

 公生涯を歩まれるイエス様は、ご自身がメシヤであると証しすることもできず、多くのしるしと奇跡を見せながら神の国の到来を告げていました。その歩みも終わりに近づいた時、イエス様は三人の弟子だけを連れてナザレの郊外にあるタボル山に登りました。その山上でのできごとが、マタイ福音書にはこう記されています。

 彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。(マタイ17・2-3)イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。(ルカ9・30)

 イエス様はメシヤとして本来の使命を果たすことができるのか否か、十字架の犠牲の道を行かざるを得ないのかという瀬戸際に立っていました。最も身近にいた三弟子さえ、イエス様の事情が全く分かっていませんでした。天の父だけが「これはわたしの愛する子」(マタイ17・5)と証をしています。

 旧約の預言者エリヤの歩みを見ると、この時イエス様が抱えていた事情の深刻さを理解することができるでしょう。

エリヤの歩み

 エリヤが預言者として登場するのは、北イスラエル七代目の王アハブの時代です。アハブ王は、北イスラエル歴代の王の中でも、軍事的、経済的繁栄をもたらした王でした。しかし、物質的豊かさを誇っても、神様を離れては永続的な繁栄は望めないことを選民の歴史は戒めています。

 創造主であり救済主である神様を忘れて、偶像崇拝に陥ったアハブ王の前にエリヤは警告を発します。「イスラエルの神、主は生きておられます!」(列王記17・1)。そして、今後、神が定めた時まで雨が降らないと告げるのです。「彼の言葉は松明のように燃えていた」(シラ書48.1)とユダヤの民は称えていますが、アハブ王には耳の痛い言葉だったでしょう。

 預言者は真実を伝えたために危険にさらされ、ヨルダン川の東側に身を隠します。カラスが運んでくるパンと肉で飢えを凌ぎ、川の水で渇きを癒します。そこで水が尽きると、今度は北部の海沿いの町に行って、貧しい未亡人の母子を訪ねるよう神様から促されます。

 エリヤはその家で一口のパンを求めます。未亡人は、親子がその日食べるだけの小麦しかなく、これから食べて死のうとしていると答えます。エリヤは神様が言う通りにするようにと告げ、少しばかりのパンを分けてもらうと、不思議なことに、その後は小麦も油も減ることがなく、彼らは飢えないで済んだのです。

 ところがしばらくして、その家の息子が病気で死んでしまいました。母親は悲しみのあまり預言者に詰め寄ります。「わたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」(列王紀上17・18)と。哀れに思ったエリヤは、男の子を抱きかかえて、神様に訴えました。すると、神様はその祈りを聞かれ、男の子を生き返らせたのです。この奇跡を見て、婦人はようやくエリヤが本物の預言者であることを信じ、「あなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」(列王記上17・24)と告白しました。

 一人の女が預言者を信じるようになり、三年の歳月が過ぎて、神様は「わたしは雨を地に降らせる」(列王記18・1)と言って、エリヤを再びアハブ王の前に立たせます。

カルメル山での対決

 エリヤはアハブ王の悔い改めのために、偶像に仕えるバアルの預言者たちとの対決を決意します。

 カルメル山に集められたのは、バアルの預言者450名。アシラの預言者400名。神様の立てられた預言者はエリヤ一人。エリヤは何ものも畏れず、立ち向かいます。「火をもって答える神を神としましょう。」(列王記上18・24)

 薪を並べて祭壇を築き、供え物の牛を切り裂いてその上に載せました。初めに、バアルの預言者たちが大声を上げて仰々しく何時間も祈り続けましたが、一向に火が降る様子はありません。そこで、今度はエリヤの番です。わざわざ薪に水をかけてから祈りました。「アブラハム、イサク、ヤコブの神。…主よ、この民にあなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください」(列王記18・36-37)

 するとすぐに、火が降って、供え物を焼き尽くしました。それを見た、王もバアルの預言者も恐れ、イスラエルの人々ははっきりと“主が神である”ことを知ったのです。

原理講論を読もう♪⑲

 

終末e25_kirisuto

 今回からは原理講論の第3章『人類歴史の終末論』について考えてみようと思います。終末という言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか。終末は“この世の終わり”、“最後の審判の時“といった意味でよく用いられる言葉です。これはキリスト教の『終末論』から大きな影響を受けています。キリスト教では聖句を根拠に歴史が“最期の時”終末に向かっていると信じています。終末には天変地異が起こり、十字架で亡くなったイエス様が雲に乗って再臨復活し、そのイエス様と共に死んだ者たちまで蘇り、世界の人々は審判を受け善人であれば天国へと入り、悪人は裁きを受けることになります。このようにキリスト教では歴史が終末に向かって進んでいると信じています。ここでは原理講論がどのように終末を定義しているのか、歴史はどこに向かっているのか考えてみたいと思います。

神様の喜び

 創造原理で説明したとおり、神様が人間を創造した目的は人間を見て喜ばれることにありました。逆に言えば人間の存在目的は神様を喜ばせることにあります。こうして書くと、神様は非常に自己中心的な願いで人間を創ったんだなと考えるかもしれません。神様は自分が喜びたいがために人間を創ったのか、と。しかし更に逆に言えば(若干屁理屈に聞こえますが)、神様が喜べるかどうかは100%人間次第だと言うことができます。人間が神様を喜ばせるためには神様のみ言通り、個性を完成し、結婚を通して真なる家庭を築き、万物を主管して三大祝福を成就していかなければいけません。この三大祝福を成していく過程は容易ではありませんが、人間が最も幸せになれる道です。神様はただ人間を見るだけでは喜ぶことができないのです。人間が喜びにあふれて、幸せに生きているのを見ることで自らも喜ぶことができるのです。このように神様は父母であるため、自分の幸せよりも子供である人間の幸せのほうがより重要に感じるお方なのです。そして父母である神様は人間が幸せを感じれば、それを見てそれ以上の幸せを感じるお方でもあります。

 もしもアダムとエバが堕落せずに、神様の戒めを守って結婚したならば、真なる家庭を築いて神様の血統を受け継いだ善の子女を繁殖したでしょう。そして神様を中心とした善なる家庭は善なる社会、国家、世界を築き、一つの父母を中心とした一家族世界、つまり地上天国を築くことができるはずでした。神様と共にある善なる世界は科学も急速に発達し、万物(自然)と共存する最も良い道を模索し、人間が真なる万物の主管者となるための手助けをしてくれるはずでした。

復帰摂理の最終章

 しかし人間は天使長ルーシェルによって堕落したため、サタンの性質を受け継ぎ、堕落性を持つようになってしまいました。そのためアダムとエバの間にはサタンの悪なる血統を持った子女が繁殖し、悪なる社会、国家、世界へと発展しました。神様との関係を持つことができないため、世界は地上地獄となりました。この被造世界の創造主は神様ですが、人間を支配しているのはサタンなのです。

 こうした悪なる世界を見て最も悲しまれているのは他でもない神様です。神様は人間が幸せになるのを見て喜ぶために人間を創造しました。しかし子供である人間が悲しみに溢れた悪なる世界で苦しみもがいているのです。人間が悲しければ、その姿を見てそれ以上に悲しまれるのが親である神様の心情です。神様の元に戻りたいと身悶えしている人間の姿を見るだけで、神様の心は引き裂かれんばかりの悲しみを感じられるはずです。

 そのため神様は人間をこのまま放っておくわけにはいきませんでした。ましてやこの地上地獄も放っておくわけにはいきませんでした。親なる神様が子なる人間を救おうとするのは至極当然な帰結だからです。また善なる世界を実現するために創造したにもかかわらず、悪なる世界を放置したままでは、創造に失敗した無能な神様になってしまうからです。それゆえ神様は必ず人間を救わなければいけないのです。それでは“救う”というのはどの程度まで救わなければいけないのでしょうか。池に溺れている子供を救う、ということは池から引きずり出すだけでなく、池に落ちる前の元気な状態にまで戻すことを意味します。同じように人間を救うということは堕落する以前の創造本然の姿まで戻すことなのです。
神様は堕落した人間を取り戻すために歴史を通して救いの摂理を展開してこられました。これを復帰摂理と言います。終末とはこの復帰摂理の最終章、クライマックスが来ていることを意味します。つまり神様が人間を救うことができる最大のチャンスを迎えた時代だということです。それでは終末はいつ来るのでしょうか。それとも終末はすでに過ぎ去ってしまったのでしょうか。次号では終末についてより深く考えてみようと思います。

新潟教区成和学生会

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 全国の兄弟姉妹の皆さん、こんにちは!

 新潟県には今年初めまで北新潟教区と南新潟教区がありました。以前から修練会を教区合同で行っていたので、私たちの間では教区の壁はありませんでしたが、名実共に一教区となり出発しました。今回は県都新潟市での活動を中心に紹介します。

 2年前に待望の二世館が開館して以来、この館でにぎやかに様々なことに挑戦しています。毎週日曜午前の中高生礼拝は、第1部が礼拝の部、第2部が学習・交流の部という構成です。礼拝では修練会や勉強などでの神体験を証しする“証しの時間”を必ず入れ、兄弟姉妹の心情を共有します。第2部では、成和学生部長の講義や、メンバーたちでゲームをしたり中和文化祭や合唱コンクールのための準備・練習をしたりしています。

 また、月に一度のお泊り会“心情文化交流会”は、5年以上、どんなに少人数でもやり続けてきました。その中で兄弟姉妹としての連帯感がとても強まったように思います。お泊り会2日目となる日曜日は月に一度の親子礼拝、親子で証しや各種報告を共有する貴重な機会です。

 Jr.STFメンバーの数を見れば全国の基準には遠いと言わざるを得ませんが、地元での教育も地道に継続しています。高校生が対象で、新潟大カープの学生が投入してくれる2日修では、神様と兄弟姉妹の愛を存分に感じて涙ながらに決意して再出発する姉妹がいたり、昨年から出発した高卒認定試験をサポートする塾を通じては、今まで教会から遠ざかっていたが神様を知り二世としてのアイデンティティーを心から自覚した兄弟などがいます。

 様々な取り組みの中で、特にここ数年、自分から二世圏、カイン圏を変えていこうと決意するメンバーも多くなりました。今年のスローガンとして定めた“神様への心からの感謝を実体化”すべく毎日奮闘しています!